チャバカノ語の始まりを考える上で、カビテ州にある「テルナテ」という町はやはり重要だと思う。
wikipediaの「テルナテ王国」によると
1606年、スペインがもとのポルトガルの砦を占拠し、スルタンとその近臣らをマニラに追放した。
とあり、これがおそらくテルナテからの最初の移民の波と思われる。スルタン・サイド(Sultan Saidi Berkat)は、スペインのもとで外交カードのように使われ続け、結局テルナテには戻れずにマニラで1628年に亡くなったとされる。
第2の波は1663年に、台湾から攻めてくる海賊・鄭成功に備えるためにスペインがテルナテから人員を引き揚げた際にテルナテから移住してきた集団(wikipediaの「カビテ州テルナテ」ページによれば200家族)が、カビテ州のテルナテと隣のタンザに落ち着いたという(ちなみに1663年には、スペインは海賊に備えるサンボアンガからも兵を引き揚げた)。
ちなみにマニラの人口は、1600年の時点で4万人超いたという説がある(フィリピン原住民2万人、中国人16000人、日本人3000人、スペイン人2400人)とのこと(Villiers, John (1987))。またマニラの中心では、1621年の時点で6,110人(うち奴隷1970人)とのこと(参照)。カビテの方は、1620年の時点で3230人(うち、フィリピン原住民2400人、スペイン人430人ほか)らしい(Borromeo 1974)。その程度であれば、テルナテ人200家族が何人か知らないがそれなりの規模と言ってもよさそうな感じがする。
さて、今回読んだ本「マニラ・ガレオン貿易」宮田絵津子(2017)に、テルナテ人についての記述が紹介されていたのでここにメモがてら引用しておきたい。
1682年には、フランシスコ・アギラールは次のような文書によって、マニラにおけるサングレイたちの存在意義を疑問視している。
悪質なサングレイたちは危険で、マニラにとって危害を加えるものである。~中略~
日本人やテルナテの人々が、それらの仕事をしっかりと、忠実にこなしてくれるからである。
マニラ・ガレオン貿易:陶磁器の太平洋貿易圏
(ちなみに出典は 「Archivo General de Indias (Seville) Filipinas, 28 N.131 Expediente sobre expulsión de sangleyes. 1626-6-28. Fols. 960r-」とある。
こういう記述を見ると、やはりテルナテ人が日本人と並べて語られるぐらいのプレゼンスがあったようで、もし彼らがポルトガル語系のクレオールを知っていてそれをスペイン語の語彙にして使っていたのなら、それがチャバカノ語のものになったのかな、という気がする。
さて今日の最後に、マルク諸島のテルナテについてちょっとググっていた際に見かけた記事についてメモ。
じゃかるた新聞のウェブサイトにある「地歩固めるオランダ ポルトガルに勝利」の記事で、
「ティドレのスルタン・サイドはスペイン軍にコラコラ船団を提供し、テルナテへの攻撃を応援する。」という記述があるが、別の記事「英を排除、丁子根絶も 支配権強めるオランダ」では、「マニラに追放されていたテルナテのスルタン・サイド」となっており、首をかしげる。同じときに同名のスルタンがいたのだろうか?
一応wikipediaにはテルナテのスルタン・サイドとは別に”Saidi of Tidore“という人物が紹介されており、一世代違うのだが、もしかして「サイド」はたくさんいたのか。
よくわからんので、別の機会にもうちょっと調べてみたい。