サンボアンガからホロに向かったフェリーが炎上した件

去る3月30日、サンボアンガ港からホロに向かったフェリーが途中で火事になり、最大31人が死亡した。「最大」というのは、ニュースが出た時点ですべての遺体が回収できていなかったからと思われる。

フェリーには約200人の乗客と30人以上の乗組員が乗っていたという。下の英文のニュースからは、死亡したのがすべて乗客だったのかは読み取れないが、全員じゃないにせよ大半は乗客だろう。

(英語記事↓)


参照1 gulfnews
参照2 skynews

このニュースを読んで気になることには、救出された乗客のうち、乗客リストに載っていない者もいたとのこと。いまだにそんな管理体制なのか。。

ガレオン貿易時代のマニラにおけるテルナテ人

チャバカノ語の始まりを考える上で、カビテ州にある「テルナテ」という町はやはり重要だと思う。

wikipediaの「テルナテ王国」によると

1606年、スペインがもとのポルトガルの砦を占拠し、スルタンとその近臣らをマニラに追放した。

とあり、これがおそらくテルナテからの最初の移民の波と思われる。スルタン・サイド(Sultan Saidi Berkat)は、スペインのもとで外交カードのように使われ続け、結局テルナテには戻れずにマニラで1628年に亡くなったとされる。

第2の波は1663年に、台湾から攻めてくる海賊・鄭成功に備えるためにスペインがテルナテから人員を引き揚げた際にテルナテから移住してきた集団(wikipediaの「カビテ州テルナテ」ページによれば200家族)が、カビテ州のテルナテと隣のタンザに落ち着いたという(ちなみに1663年には、スペインは海賊に備えるサンボアンガからも兵を引き揚げた)。

ちなみにマニラの人口は、1600年の時点で4万人超いたという説がある(フィリピン原住民2万人、中国人16000人、日本人3000人、スペイン人2400人)とのこと(Villiers, John (1987))。またマニラの中心では、1621年の時点で6,110人(うち奴隷1970人)とのこと(参照)。カビテの方は、1620年の時点で3230人(うち、フィリピン原住民2400人、スペイン人430人ほか)らしい(Borromeo 1974)。その程度であれば、テルナテ人200家族が何人か知らないがそれなりの規模と言ってもよさそうな感じがする。

さて、今回読んだ本「マニラ・ガレオン貿易」宮田絵津子(2017)に、テルナテ人についての記述が紹介されていたのでここにメモがてら引用しておきたい。

1682年には、フランシスコ・アギラールは次のような文書によって、マニラにおけるサングレイたちの存在意義を疑問視している。

 悪質なサングレイたちは危険で、マニラにとって危害を加えるものである。~中略~ 

 日本人やテルナテの人々が、それらの仕事をしっかりと、忠実にこなしてくれるからである。

4766424719
マニラ・ガレオン貿易:陶磁器の太平洋貿易圏

(ちなみに出典は 「Archivo General de Indias (Seville) Filipinas, 28 N.131 Expediente sobre expulsión de sangleyes. 1626-6-28. Fols. 960r-」とある。

こういう記述を見ると、やはりテルナテ人が日本人と並べて語られるぐらいのプレゼンスがあったようで、もし彼らがポルトガル語系のクレオールを知っていてそれをスペイン語の語彙にして使っていたのなら、それがチャバカノ語のものになったのかな、という気がする。

さて今日の最後に、マルク諸島のテルナテについてちょっとググっていた際に見かけた記事についてメモ。

じゃかるた新聞のウェブサイトにある「地歩固めるオランダ ポルトガルに勝利」の記事で、

「ティドレのスルタン・サイドはスペイン軍にコラコラ船団を提供し、テルナテへの攻撃を応援する。」という記述があるが、別の記事「英を排除、丁子根絶も 支配権強めるオランダ」では、「マニラに追放されていたテルナテのスルタン・サイド」となっており、首をかしげる。同じときに同名のスルタンがいたのだろうか?

一応wikipediaにはテルナテのスルタン・サイドとは別に”Saidi of Tidore“という人物が紹介されており、一世代違うのだが、もしかして「サイド」はたくさんいたのか。

よくわからんので、別の機会にもうちょっと調べてみたい。

2021年11月までのアブサヤフ関連のニュースまとめ

なかなかニュースを確認できていない日々で、かつ本ブログの更新もほとんどしていないため本ブログでここ数年ウォッチしてきたアブサヤフ関連のニュースも今年は更新できていなかった。せっかくこれまで記録してきて、ここで挫折してはもったいないので、主要な出来事を網羅できるかわからないが、2021年の出来事についてさっと調べた結果を以下に時系列にまとめておきたい。

2021年2月

サンボアンガ市内でアブサヤフ幹部が警察に殺害された。

(参考ニュース記事(英語)↓)

https://www.manilatimes.net/2021/02/03/news/regions/abu-sayyaf-subleader-killed-in-zamboanga-clash/836237/

スールーで、自爆テロを準備していた女性9人が逮捕された。

(参考ニュース記事(英語)↓)

https://www.aljazeera.com/news/2021/2/23/nine-suspected-female-suicide-bombers-arrested-in-sulu

2021年3月

タウィタウィで、アブサヤフ幹部が国軍に殺害され、同時に2020年1月に拉致されたインドネシア人人質4人が救出された。

(参考ニュース記事(英語)↓)

https://www.dw.com/en/philippine-troops-kill-leader-of-abu-sayyaf/a-56945352

2021年5月

マレーシアのボルネオ島でマレーシア警察がメンバー5人を殺害

(参考ニュース記事↓)

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65359

2021年7月

バシラン州での投降者が2021年から数えて21人になった。

(参考ニュース記事(英語)↓)

https://www.pna.gov.ph/articles/1147639

2021年9月

(参考ニュース記事(英語)↓)

ケソン市内で、NBIがアブサヤフ幹部を逮捕した。

https://www.manilatimes.net/2021/09/15/news/nbi-nabs-abu-sayyaf-member-in-quezon-city/1814830

2021年10月

サンボアンガ市内で、2015年に起きたサマル島での拉致事件の誘拐犯が逮捕された。

(参考ニュース記事(英語)↓)

https://www.philstar.com/nation/2021/10/16/2134620/abu-sayyaf-member-involved-samal-island-kidnapping-nabbed-zambo

今日は、ここまで。

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サンボアンガ市内でアブサヤフ幹部など4名が逮捕された件

去る10月11日と12日に、2009年の人質拉致および殺害事件に関与したとして指名手配中だったHassan Anang Mohammadほか3名がサンボアンガ市内で逮捕された。

参考英語記事↓

https://www.cnn.ph/regional/2020/10/12/Abu-Sayyaf-members-Zamboanga-City.html

現場はサンボアンガ市内のキャンプ・イスラム近くにあるLower Calarianというバランガイ。逮捕されたうちの一人は現役の港湾警備隊員ということで、やはり当局に協力者がいることでテロリストがサンボアンガ市内に入れるようになっているようだ。

ところで、先週はアブサヤフ関連で言えば、バシラン州にある刑務所から受刑者が8名脱走した事件があり、その中にアブサヤフのメンバーもいたとのこと。

参考英語記事↓

アブサヤフのメンバーであり受刑者のLahamanという男性が、受刑者なのになぜか銃を持っており、それを使って警備員を殺害し正面ゲートから逃走したという。

その後、1名は警察によって殺害され、もう1名は負傷させ身柄を確保した。しかしながら、14日の時点で6名は逃走中とのこと。

実は(少なくともこの地方での)脱走事件はそう珍しくなく、ちょっと検索しただけでも2件は記事は出てきた。せっかく捕まえても逃げられてしまうのであればアブサヤフ解体はそりゃこれまで難しかったわけだ、と思ってしまった。

https://www.voanews.com/east-asia/abu-sayyaf-suspected-philippines-abductions-jailbreak

サバ州東海岸(サンダカン含む)とスールー王国

2013年、Airphil expressがサンボアンガ―サンダカン便を始めたが、矢先に戦闘が起こり、便がストップした。かつて植民地自体にスペインから併合されず、20世紀に入りアメリカによって制圧されたスールー王国の末裔を名乗る、キラム三世が率いた私兵というかテロリスト集団がマレーシアのサバ州に攻め込んだ事件は、ウィキペディアには「ラハダトゥ対立(2013年)」として記録されている。非常に興味深い内容なのでここで紹介したい。

事件がおさまってすぐに、マレーシア政府は治安措置としてサバ州に当時住んでいたフィリピン人の移動を実行した(当ブログ「サバのフィリピン人の移動を発表」を参照)。これはおそらく不法移民で、ほとんどが国境近辺のスールーやタウィタウィ出身のバジャウやタウスグと思われる。不法移民の強制送還はイタチごっこであり、定期的に行われている(当ブログ「デュテルテが、サバ州の不法就労フィリピン人7000名の強制送還に合意」を参照)。

さて、上のウィキペディアの記事にもあるように、マレーシア政府はスールーのスルタン(キラム一族)に毎年5000リンギットの小切手を1963年あたりからずっと送り続けていたのだが、2020年7月26日付のまにら新聞の記事で、事件後にマレーシア政府はこの支払いを止めたということを知った(参考記事)。もっとも、支払いを行っていたことで「スールーの末裔」たちが調子に乗ってしまってこんな事件になってしまったのであれば、マレーシア政府としては続ける動機はもちろんない。マレーシア政府としては、送っていた金額は全然大したことないのだが。

ところで、上記のまにら新聞の記事によれば、キラム家は『マレーシアは相続人1人につき「年間5万3千マレーシアリンギット(約13万円)を13年まで支払い続けていた」と』主張していることになっているが、レートを換算すると13万円は5,300リンギットの間違いと思われる。また、上のウィキペディアにも5,300リンギットと書かれている(なお、ウィキペディアの記事を読むと総額5,300リンギットだったように書かれているので、この部分も不明)。

ともかく、2013年はこの地方は不安定だった年で、同年9月には今後はMNLFのヌル・ミスアリ派(ヌル・ミスアリ自身はそこにはいなかった)がサンボアンガ市に攻め込んだ(ウィキペディア英語版の記事”Zamboanga City Crisis“を参照。)。この事件は当地では英語で”Zamboanga Siege”と呼ばれているようだが、当ブログではウィキの記事にならって「サンボアンガ危機」と呼んでいる。

ラハダトゥ対立にしても、サンボアンガ危機にしても、背景にはバンサモロ基本法の制定の前段階の交渉に際して、ムスリム勢力の代表になれない各派閥の不満や焦りがあったようだ。現在はようやくバンサモロ暫定自治政府(2019年2月発足)ができ、政情は落ち着いているよう。(ISISが2017年にミンダナオ中部の都市マラウィに攻め込んだマラウィの戦いは別として)。

サンボアンガ市のモスクで爆破事件、2名が死亡

1月27日にスールーのホロの教会で爆破テロがあったが、翌日夜には犯行グループの一人と見られるアブサヤフのメンバーが、ミンダナオ南西部のサンボアンガ市内で警察と撃ち合いになり死亡した。

(参考↓英語記事)
https://www.sunstar.com.ph/article/1785124/Zamboanga/Local-News/Abu-Sayyaf-bandit-killed-in-a-shootout

上記記事によれば現場は市内のサント・ニーニョ・ビレッジと記載されており、おそらくユーベンコモールのあるプティックにあるサント・ニーニョ・ビレッジだと思われる。

さらに、今日1月30日には、サンボアンガ市内のモスクでグレネードによる爆破事件が起き、2名が死亡、4名が負傷した。事件が起きたのは市の南タロンタロンというバランガイで、海岸に近くイスラム教徒が比較的多いエリア。

(参考↓英語記事)
https://www.philstar.com/nation/2019/01/30/1889418/armm-gov-zamboanga-mosque-blast-highest-form-cowardice-obscenity

犯人は不明。先日の事件を受けてキリスト教徒による報復と見せかけたいテロリスト側の工作か、あるいは今回のバンサモロ自治政府(BARMM)に関連するイスラム教徒同士の紛争か、はたまた単純に爆弾の暴発か。

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チャバカノ語文法入門2

サンボアンガ・チャバカノ語の文法について、習い始めてからそろそろ6年が経過。日常会話で使い始めてからは2年弱なので、実質は2年ぐらい。
基本的なことは言えるようになってきたので、ちょっとまとめてみます。

1. 語順
チャバカノ語の語順には2通りある。それはちょうど、タガログ語に述語から始まる通常の語順の文と、文中に”ay”が入っているang形から始まる文の2通りあるのになんとなく似ている。ただし、チャバカノ語ではタガログ語の”ay”のような文法語はない。

これは例えば、このyoutube解説(英語)ビデオに出てくる例のような感じ。
通常の語順の例:Ya mira el hombre con Jose. (4分目から始まる箇所)  男はホセを見た / 男はホセと会った 。
主語から始まる語順の例:El libro man sale na 5 linggwahe. (10分目から始まる箇所) その本は5言語で出る(=「世に出る」)。

ちなみに、上の解説ビデオはよくまとまっており、英語版のwikipediaを読むよりもよっぽどわかりやすい。

2.フォーカス
自分で2013年にこのブログに書いた「チャバカノ語とタガログ語の比較」の通り、タガログ語などのフィリピン諸語と違ってチャバカノ語には動詞フォーカスはない。この点が決定的にシンプルだと思う。

3.語彙
語彙はスペイン語の影響が非常に強い。セブアノ語の影響はおそらく既にピークを過ぎており、現在では新しいセブアノ語語彙の流入は止まっていると思う。他のフィリピン諸語と同様、若い世代、あるいは高学歴になるにつれて英語の影響が強い。

語彙の面でおもしろいと思うのは、タガログ語と比べた時に中国語(というか広東語)の影響がかなり弱いというところ。おそらく直接的に広東語から借用された単語はほとんどないのではないかと思う。例えば”tata”(父)、”nana”(母)はタガログ語やセブアノ語と同じなので、直接的にはそこから来たように思われる。少なくとも19世紀末までにはサンボアンガでも中国人は多かったようだが、マニラやセブとは比べようがない、ということだろうか。

さて、現在のチャバカノ語のサンプルで、特に大卒の若い世代が話しているのを参考までにリンクしておく。
本人曰く大学までサンボアンガで過ごしており、ところどころに現われる英語から察するに英語も流暢、かつ見た目にはあまり中華系のようにも見えないタイプ。

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サンボアンガの語源の一説

前回に続いて、まだ「フィリピン漂海民」を読んでいる。

「フィリピン漂海民 月とナマコと珊瑚礁」門田修(1986)

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その中に、サンボアンガの名前の由来についての伝承らしきものがある。興味深いので以下、引用してみる。(125-126p)

 ジョホール(マレー半島)の近海でいまと同じように家船生活をしている一団がいた。ある日集団の長老が杭を海底に突きたてて船をもやった。それにならって他の家船もつぎからつぎへと、船と船を結んでいった。ところが長老が海底だと思って杭をさしたところは、大きなエイの鼻の穴だった。夜の間にエイは目をさまし、たくさんの家船を繋いだまま泳いで遠くの海にいってしまった。朝になり気がついた人たちはびっくりしたが、自分たちがどこまで引っ張られてきたのか、どうすれば帰れるのか、分からなかった。それから数日、海を漂っていると陸を見つけた。そこにとどり着きやっとの思いで船を泊めるための杭を突きたてた。その場所がサンボアンガだった。
 杭をサマル語でサンブーアンと言う。サンボアンガ市は船を泊める杭のことだ。今でも漂海民たちはサンボアンガをサンブーアンとか、サンブーと呼んでいる。サンボアンガに着いたのち彼らはスールー諸島を西に進み、現在の海域に住むようになったという。つまり漂海民はいったんフィリピンに行って、それから西漸したので、クブーのように家船にアウトリッガーがついたとしても不思議はないわけだ。伝説からこんな風に推理してみることができる。しかし、クブーがあったからこんな伝説を考えついたのかもしれない。伝説もクブーもいつごろできたのか、それがはっきりしていないのだ。
 伝説にもいろいろある。エイに連れられてサンボアンガに着いたのち、ある人たちは陸に上がり農耕を始め、残りの人たちが漂海民になったとか、ジョホールのことには触れず、サンボアンガからエイに引っ張られてきたとか。そしてタウスグ族のあいだでは、自分たちと漂海民はもともとは一緒に住んでいたが、いかにして彼らと漂海民とが別々に暮らすようになったかという伝説をもっている。

この記述は、ウィキペディアの「サンボアンガ」に載っている説明とも近いし、英語版ウィキペディアの”Zamboanga City“の記述と全く同じ。今日の時点で、英語版のウィキペディアにはこうある。

The city used to be known as Samboangan in historical records. Samboangan is a Sinama term for “mooring place” (also spelled sambuangan; and in Subanen, sembwangan), from the root word samboang (“mooring pole”). The name was later Hispanicized and named as Zamboanga.

(拙訳:当市は歴史的記録ではサンボアンガン(Samboangan)として知られている。サンボアンガンは、シナマ語(サマ・バジャウの言語)で「杭を打つ場所」といい、語根はサンボアン(杭)である。この名は後にスペイン語化してサンボアンガ(Zamboanga)と名付けられた。

ちなみに日本語版はこう。

伝承では、初期のオーストロネシア語族の移住者は、山に住むスバノン族、川岸にいた民族、「花の豊かな地」という意味のジャンバンガン Jambangan という平野に住んでいたルタオ族だった。その後、彼らの子孫で低地に住んだ人々、ボートに乗ってきた人々や海を漂泊する人々、バジャウ族やサマール族がこの地を「サンボアンガン Samboangan」と呼んだ。サンボアンガンはジャンバンガンから来たものという説もある。スペイン人が作図した初期の地図では、すでにサンボアンガンの地名が現れ、「船が着くところ」を意味すると言う説明がなされている。またサンボアンガンは、サマール族やバジャウ族が浅瀬で船を進ませるときに使う木の棒「サブアン sabuan」から来たという説もある。初期のスペイン人植民者はここを「エル・プエブロ・デ・ルタオ El Pueblo de Lutao」、ルタオ族の地と呼んだ。

これらの情報から見るに、どうやら門田が聞いた話は正しいのではないかと思う。もともとサンボアンガにはルタオ族が住んでいたのかもしれないが、スペイン人が使うようになった名前はサマ・バジャウの言語から来た、というのはあり得るのではないだろうか。そして「ルタオ族」の情報はどうも少なく、ようは人口がかなり少なかったのでは、と思う。

というのも、1635年にDon Juan de Chaves率いるスペインがサンボアンガにピラール要塞を作った際、300人のスペイン人と1000人のビサヤ人を連れて行ったとされるが、当時の1300人というのは現地人口と匹敵するぐらいの規模だったのでは、とも思える。であれば、数百年の間にルタオ族は言語的にはすっかりスペイン語なりチャバカノ語なりに席を明け渡したのだとしても、それほど不自然ではないのではないだろうか。

もっとも、もしいつかサンボアンガの山奥か田舎の方でルタオ族だという人たちに会えるのなら、けっこうな大発見ということになるのかもしれない。そんな人たちがいたとして、さらに現在まで独自の言語や伝承をもっていれば、の話だが。

フィリピン初の自爆テロ

このところ忙しくてこのブログもあまり更新できていないし、ニュースも見られてない。今回、日本大使館からの注意喚起メッセージをもらってようやくバシランでのテロについて知った次第。自称サンボアンガ・ウォッチャーとしては、このブログ上で記録漏れがあるのは嫌なので以下に載せておきたい。

事件があったのは7月31日、バシラン州の北西部にあるラミタン市を出たチェックポイント。車の運転手による自爆テロと見られており、民兵、一般人合わせて11人(運転手含む)が亡くなり、他に9名が負傷した。爆弾はIED(自家製爆弾)と見られている。

フィリピンではこれまで自爆テロはなかったので、アブサヤフが新しい戦法を試しているのでは、という見方もある。

(英語記事↓)
http://newsinfo.inquirer.net/1016464/suicide-bombing-eyed-in-basilan-attack
https://www.rappler.com/nation/208594-basilan-blast-abu-sayyaf-furuji-indama-terror-even-in-hiding

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2013年のサンボアンガ危機の犯人一味のうち、97人が釈放された

MNLFの2013年のサンボアンガ危機の犯人一味197のうち、97人が5月28日に釈放された。基本的にバシランとスールー出身の男たちで、女性は1人のみとのこと。最終的に、彼らには一人5000ペソの罰金が科されただけにとどまった。

残る一味のメンバーは100人で、もっと罪の重い中核メンバーと思われるが、それにしてもこの97人に対する罰の軽さは被害者を落胆させていることは間違いない。そもそも、MNLFのリーダーであるヌル・ミスアリは部下の一部が「暴走」したのに勾留すらされておらず、もちろん責任もとっていないのが流石フィリピンというか、外からは理解しづらい部分だと思う。

(参考英語記事↓)
http://news.abs-cbn.com/news/05/28/18/court-frees-97-mnlf-members-in-zamboanga-siege
https://www.philstar.com/nation/2018/05/28/1819430/zamboanga-city-guard-96-charged-over-siege-freed

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