クレオール関係の本を検索しているうちにたどり着いた本。本題はタイトルの通り。
「言語のルーツ」デレク・ビッカートン(1981=1985)
デレック・ビッカートン
大修館書店
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日本語訳がわけわからんときがありますが、それでも後半あたりからは面白くなってきます。
理論言語学の人たちからすればこの本は古典の仲間に入るのでしょうが、クレオールの研究をもとにチョムスキーとは別のアプローチで「言語の生物プログラム仮説」を説明していくさまは、興味深いです(といって、私はチョムスキーを直接読んだことはないのですが)。
wikipediaの「ビッカートン」紹介によれば、ビッカートンはその後、生物言語学に進んでいき、チョムスキーとかと同じ方面で研究を続けているようです。
私からすると、生物言語学とか理論言語学の研究をするんなら、最初からフィールドになんか行かなくてよかったんじゃないか、と思わなくもないです。ビッカートンにとっては、若気の至りだったんでしょうかね。
さて、ここからは脱線していきますが、本書の中に出てくるクレオールの定義によれば、俺がやっているチャバカノ語はクレオールに含まれないかもしれません。チャバカノ語は、下の2点を真とすれば、典型的なクレオールではありません。
理由その一、そもそもポルトガル系クレオールがその祖先にある可能性。
理由その二、文法の骨格が明らかにフィリピン諸語のものである点。
上記から、ようするにいつ頃にどこで生まれたかも確定できないので、クレオール化にどの程度の時間がかかったのかもわかりません。はっきりしているのは、現在のインドネシアの北マルク(Maluku)州テルナテ島と同名のテルナテ町がフィリピンのカビテ州にあり、そこにチャバカノ語の拠点のひとつがあること。この町の歴史については、まずウィキペディアの「チャバカノ語」に、
「カヴィテ州周辺のチャバカノ語は、モルッカ諸島(現在のインドネシア)のテルナテ島にいたマレー系部族のメルディカ人(Merdicas)が現在のテルナテ町周辺に移住したことによる。テルナテ島は一時ポルトガル人が植民地化したが、後にスペインの植民地となった。そのうち一部の人々が1574年、スペイン人の呼びかけに応じてルソン島に渡りカヴィテを本拠に中国人海賊(林鳳)との戦いに備えた。結局リマホンの襲来は起こらなかったが、メルディカ人共同体はマラゴンドン川(Maragondon River)河口周辺に住み続けた。現在ではその地がテルナテ町と呼ばれ、メルディカ人の末裔はポルトガル語の影響を部分的に残したスペイン語クレオールを使い続けている。」とあり、また同じくウィキペディアの「テルナテ島」の記述によれば、
「スペイン人は~中略~1606年にテルナテ島のポルトガル人が築いた砦を占拠し、スルタンを捕まえてマニラに移送した。」
となっています。
ウィキペディア英語版のテルナテ島では、ポルトガル人が現地のスルタンの許可を得て要塞を作り出したのが1522年。そして、スペイン人による城塞都市「マニラ」が作られたのは1571年から。ここから察するに、ポルトガル語系クレオールが生まれたとするなら、1522-1574年の間としなければなりません(もちろん、ピジンは要塞を作り始める前からあったでしょう)。そしてその言語がテルナテ島で使用されていた段階で既にスペイン語の語彙に入れ替わり、メルディカ人の一団によってマニラの方にもたらされた後、現在のチャバカノ語の原形になった、ということです(ちなみに、Lipski等の学者が言っている説は日本語版の「チャバカノ語」の項の説明とは違う部分がありますので注意。)。
私としては、マニラについてからメルディカ人の2世が現地でクレオールを始めた気がしてなりません。テルナテ島では、現地語を継承するかぎりクレオールを生み出す必要がありませんから。もしそうだとすれば、上に書いた理由その一は先行ピジンにしか関係なくなります。理由その二は、現地社会の優勢言語のひとつがタガログ語だったとすると生まれたときからの宿命だったと思われます(そうするとビッカートンの定義からは外れ、彼の言う「クレオール」には含まれなくなります)。
しかし、ここで疑問がひとつ。メルディカ人はそもそもテルナテ島では母語として何語を話していたのでしょうか。マレー語だったのでしょうか。だとすれば当時のマレー語をちょっと調べなきゃ。。
サンボアンガのチャバカノ語の文法を見ているとタガログ語と相当近いところもあり、いったん生まれてからタガログ語に近づいていったのか、最初からそうだったのか、または実は他のフィリピン諸語の影響なのか、ちょっとわかりません。いかんせん、1600年から最初の言語学的な資料が出てくる20世紀前半までの間に時間がありすぎて、ビッカートンが知りたいような情報はチャバカノ語からは得られそうにありません。
サンボアンガのチャバカノ語については、再びウィキペディアによれば、
「かつてスペイン領フィリピンはメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)に属しており、1635年6月23日に要衝サンボアンガにサン・ホセ要塞(現在のピラール要塞)が着工した後、ルソン島のカヴィテ州やヴィサヤ諸島のセブやイロイロから派遣された労働者たちがスペイン人やメキシコ人の兵士たちとともに建設に従事した。これにより多様な言語が混ざり合い、その後もスペイン人宣教師・軍人がサンボアンガの政治や宗教に影響を与える過程でスペイン語化が進んだ。」
となっていて、上の仮説から言ってもたしかにピラール要塞を作り始めた頃にクレオール世代がサンボアンガに行って、現地で共通語がない中で主要言語になった、というのは納得がいきます。ただ、マニラ地方で生まれてから20年弱しか経ていないホヤホヤの言語が異なる場所で独自に発展していったとすると、カビテ・テルナテのチャバカノ語とサンボアンガのチャバカノ語が今でも相互理解できるほどに文法的に類似しているのは、ちょっと無理があるのではという気がしなくもないです。定期的に人の交流があったとすれば別ですが。まぁ、あったのかなぁ。
以上、来週末5年ぶりにサンボアンガへ行くので、ちょっとチャバカノ語の歴史を調べ直してみました。いやはや、興味が尽きない。