注)この記事はほとんど論文です。長いです。
戦前・戦中とフィリピンのダバオにはたくさん日本人がいた。たとえば2万人とか。しかし、当時の町全体の人口がわからないことにはこの数字はまだ迫力が欠ける。なんせ、この時代には日本人はアジア・オセアニアに出まくっていたのだから。
ネットで入手できる論文としては、たとえば、
大野俊 「ダバオ国」の沖縄人社会再考 – 本土日本人,フィリピン人との関係を中心に –
この論文では、1937年に、ダバオ市の全人口が45,579人とある(日本人=11,487人、クリスチャン・フィリピノ(ビサヤ人、イノカノ人等)=26,731人、非クリスチャン・フィリピノ(先住民系)=6,209人、その他の外国人は中国人を中心に1,152人)。
なるほど、たしかに多い。20%というのは、今の新宿区の中国人が2倍になったようなもの。「ダバオ国(グオ)」と呼ばれるのもわかる。ところで、現在ダバオにフィリピン最大の中華街があることを考えると、「中国人を中心に1152人」しかいないというのは気になる。これはまたの機会にもっと調べたい。
さておき、この論文には7ページ目と9ページ目にチャバカノ語が登場する。まず、
『こうした外見,言葉,生活習慣などの違いを認識 した地元フィリピン人は,沖縄移民を日本本土移民 とは区別 し,地元のチャバカノ語で 「オ トロ ・ハボン(OtroHapon)」,すなわち 「別の 日本人」 と呼んだ。 この言葉は,沖縄移民二世の子供たちに対 しても純血,混血を問わずに使われた 』
9ページ目は、
『当時,ダパオで共通語に近かった言語は,スペイ ン語 と土着の言語が混成したチャバカノ語だった。その言葉 の中のい くつかは,沖縄移民の間でよ く使われるよ うになった。 「コンパ(compa)」 (共同,共同事業),「パタイ (patay)」 (死ぬ),「タンキ (tangke)」 (水タンク),「ギリン ・ギ リン (gilinggiling」 (頭がおか しい) などである。一方で, 麻の引き屑の中でよく育った 「ナ-バ」 (キノコナ/†) という沖縄方言が現地人の間に広がって使われていた という(金武町史編さん委員会 1996a:301)。 こうした言葉の 「相互乗り入れ」は,沖縄人が労働現場などで本土 日本人以上に深 く地元フィリピン人 と交流 していた証と考えられる。』
これが今回のテーマ。このような日本人が残した記録や証言の検討は、チャバカノ語研究ではおそらく前人未到の領域だろう。
上の論文では「チャバカノ語」が共通語に近かったと書いてあるが、さてここでの「チャバカノ語」は実際にはなんだったのだろうか。私の考えを先にいうと、単なるピジンだったのだと思う。ようは、文法を適当に省略したスペイン語の上に、適当に現地系(タガログ語とかビサヤ語とか)の単語を載せたようなものだったのだと思う。そういう意味で、現在また当時サンボアンガ等で話されている(た)のとは別の系統。
まず7ページ目からスタート。”otro hapon”はたしかにチャバカノ語だろう。スペイン語では「別の日本」になってしまって「日本人」という意味にはならない。しかし「hapon」はタガログ語では「日本人」の意味でも使われる一方、”otro”は少なくとも現在は使われない。一方、ビサヤ語では”otro”は「繰り返す」の意味なので、消去法でチャバカノ語としよう。
次、9ページ目。”compa”や”giling-giling”は聞いたことのない単語だが、”patay”や”tangke”は今のタガログ語やビサヤ語にもある。
おそらく”compa”は”compartido”かなんかのスペイン語から来た単語、そして”giling”はタガログ語で「挽く」だから、「ぐるぐる回す動作が『くるくるぱー』に似ている」とかかもしれない。どれも、チャバカノ語プロパーの単語、というには弱そう。
「チャバカノ語」という名称を当時の日本人が何に対して使っていたのか、というのはちょっと興味深いトピックである。他の文字化された証言もネットで探してみよう。
まず、NHK。当時ダバオに住んでいた田口タダシさんは、お父さんがチャバカノ語を話せた、という。その部分を抜粋すると、
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110570_00000
『父と母は母語が違っていたので、チャバカノ語(ミンダナオ島南西部のスペイン語に近い言葉)、セブアノ語(セブ語、ビサヤ語とも)、イスラム教徒の部族の言語などを交えて話していました。』
もちろん田口タダシさんはカッコの中の言葉は喋っていない。「(ミンダナオ島南西部のスペイン語に近い言葉)」というのはNHKの人がサンボアンガのチャバカノ語と混同して後で勝手につけたと思われる。そもそも、ダバオは「ミンダナオ島南西部」ではなく、日本人であるお父さんは戦前にダバオで働いていた、ということなので南西部の言葉を身に着けていた可能性は低いのではないか。
証言によれば、お母さんも話せたというが、この人はダバオ生まれではないか。ここでのチャバカノ語は、ダバオで知り合った二人が共通語として話せた言語だとすれば、やはりピジンの方が納得がいく。言いたいのは、彼らが身につけていたのはクレオール言語の方ではない、ということ。
次に進もう。沖縄の読谷の村史にもダバオで終戦を迎えた人の証言がある。以下、チャバカノ語らしいものが出てくるところを抜粋。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm
『十二月二十五日、私達の収容されていたフィリピン・ハイスクールが面する道路上に遂に戦車が来た。戦車の傍らには若い中国人の通訳がいて、現地人に向かって「アーモーベニ、アーモーベニ(先生のように偉い人が来たという意味、つまり偉い日本軍が来たという意)」と叫んだ。』
「アーモーベニ」が”amo vene”だとすると、 チャバカノ語らしい。珍しく2語文である。スペイン語だと”viene”となるところ、サンボアンガのチャバカノ語と同じく”v(b)ene”である。ここでも、中国人の通訳はやはりクレオール言語ではなく、ピジンを話していたのではないか。ただし、本人は自分の話していたのを以下のようにスペイン語と言っている。
「私はスペイン語には不自由しなかったので」
先の方にも、渡航前にスペイン語の訓練を受けたとか書いてあった。少なくとも、戦前のダバオの共通語はスペイン語だったということはわかる。「チャバカノ語」は、海外の文献を見ても、変なスペイン語という語源だとされているし、うまく話せない人が卑下するときにも使っていたのではないだろうか。
では、最後に「フィリピン残留日本人2世・集団帰国者一覧」から。
まず新ビエンベニドトシオさん。
「父は、1939年頃にダバオデルスル州マララグ町に来て、炭焼きの商売をしていた。父は現地語であるチャバカノ語を話すことができた。」
次はサトウ・ラモン&ヘンリーさん。ただし、おそらくマギンダナオ州。
「父は現地語であるチャバカノ語や母の部族であるティドュライ族の言葉を話すことができた。」
現地語がミンダナオ中どこでもチャバカノ語だった、というよりは、当時までスペイン語が共通語だった、ということだろう。でも、スペイン語がペラペラの人は少なく、みんなピジンで話していた。
ここで新たな疑問が出てくるのだが、ではミンダナオ以外のフィリピンでは戦前の共通語はどうだったのだろうか。どこでもチャバカノ語と呼ばれていたのだろうか。気になる。
ひとつのヒントは、英語版のwikipedia。それによれば、ダバオとコタバトにはそれぞれチャバカノ語の方言と認められるものがある、とされていて、ダバオの変種は別名”castellano abakay”、そして中国語と日本語のどちらの影響が強いかによって2つに分けられるという。
“The other dialects of Chavacano which have, primarily, Cebuano as their substrate language are the Mindanao-based creoles of which are Castellano Abakay or Chavacano de Davao (spoken in some areas of Davao), this dialect has an influence from Chinese and Japanese, also divided into two sub-dialects namely Castellano Abakay Chino and Castellano Abakay Japón,”
ダバオのチャバカノ語は、”castellano abakay”という別名がついているが、私の推量では”abakay”は主要産業であったアバカ。下のウェブサイトによれば2000年センサスでは59,058人の話者がいたという。ただ、具体的なコミュニティの名前など出てこない。
http://www.nativeplanet.org/indigenous/ethnicdiversity/asia/philippines/indigenous_data_philippines_davao_chabakano.shtml
しかし、Chabacano (Philippine Creole Spanish)
Oceanic Linguistics Special Publications
No. 14, A Bibliography of Pidgin and Creole Languages (1975), pp. 210-216
http://www.jstor.org/stable/20006595?seq=1#page_scan_tab_contents
を読むと、上記の主張はWhinnom(1956)にもとづいているのではと思えてくる。以下、上の文献から反論を抜粋。
“Although Whinnom(1956) mentions another offshoot called ‘Akabay Spanish’ spoken at Davao from about 1900 on, his information is of doubtful authenticity. Whinnom also notes that for some years a ‘Bamboo Spanish’ pidgin was spoken at Davao between Japanese settlers and Filipinos. The term Davaueño or Dawaueño was applied by the census takers to a mixture of Tagalog and Cebuano with a little Spanish.”
研究は続く。
(おまけ1)
Navi manilaの記者がダバオで、チャバカノ語が話せる人を探してみた、という。ようやく見つけたと思った人が話したのは、正統スペイン語だったという。結局、英語に対する「タグリッシュ」のように、自分のスペイン語を卑下している言っているだけだったのだろう。
マニラ新聞デスク日記
http://navimanila.com/travel/scenerymindanao.html