主義としてのエスペラント

ここまでの議論で、エスペラントの本質は学びやすさや公平性なんかにはなく、それをどう使うかというアイディアだということがわかったかと思う。

そもそも、言語的には、エスペラントはその歴史的経緯から、西の言葉である。発案され運動が繰り広げられてきたのはヨーロッパが中心で、その結果としてファンも彼の地に集中しており、EUとの接近も指摘できる。かつ、言語構造的にも完全に西の言葉なので、例えばアジア言語を母語とする人にとっては習得にかかる負担はけっこう重い。

だからエスペラントが言語として「国家の支配から独立しているから公平」と訴えたとしても、説得力はない。それは、国際機関が北の国に都合のよいように作られている、というような批判と同じ理屈である。

パワーバランスの不均衡を乗り越えるためには、世界各国でエスペラント主義者がバランスよく存在していることが必要だ。が、エスペラントの普及活動は、それが「正しい」から広めるのではなく、主義に賛同できる人を探す、という類のものであるべきだ。なので、たとえ国家の関与(たとえば公立学校で講座を持つとか)があっても、エスペラントが何なのかを知る機会を与える程度のもの以上は望ましくないと思う。文法の理解度を点数化して評価する等は、まったく本質から外れている。エスペラントの主義を理解しているかということが大切なのである。

究極的には、エスペラント主義はエスペラントを話さなくてもいい。お互いが第二言語同士で、平和の実現のために対話する、それに尽きる。これがエスペラント主義と言ってしまうなら、意識しないまでもエスペラント主義者はかなりの数にのぼるだろう。

ところで、エスペラント関係機関は、上記のような考え方には干渉しない。エスペラント協会専管の仕事は、言語的内容についてである。ありがたいことに、中央が思想を統制するような組織でないので、「なぜ今エスペラントか」は、学ぶうちに自分で見つけろ、ということだと思う。

そんなわけで、以上は、現時点での俺の個人的意見。エスペラントを始めてから今年で12年。ようやく自分の考えがもてるようになってきた。

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英語が実現したエスペラント的世界

実は、今回、超短期間だがロサンゼルスを旅行してみて、これは初期のエスペラントが夢見た世界そのものではないか、と思った。

さまざまな人種が暮らす世界で、それぞれの民族はそれなりに自らの言葉を保持しつつ、さらに共通語として別の言葉を話す。舞台設定としては、俺が見たロサンゼルスはこれ以上ないぐらいにエスペラント的なのである。

エスペラントが反対しているのはその英語=アメリカだが、実際に現れた例を観察することによって、エスペラントが目指す世界の修正が必要だと思う。

俺がロサンゼルスの例から導き出した結論は、エスペラントのコミュニティは常に離散していなければいけない、ということだ。でなければ、エスペラントだけで生活できる環境が生まれ、継承語を保持するインセンティブがなくなってしまう。そうなればアメリカで暮らすのと同じで、その地はエスペラントのネイティブ話者だらけになってしまう。

それの何が問題なのか?

エスペラントは、ネイティブ話者ではなくて第二言語として使用するために作られた言葉である。言葉(第一言語)が違う者同士のコミュニケーションのために考案されたのだから、それが同じ者同士になってしまっては本末転倒。それこそ英語と変わらなくなってしまう。

エスペラント話者は(それぞれの地域コミュニティに属した状態という意味での)離散した上で、もうひとつのアイデンティティとして、エスペラント主義を共有する人の集まりでなければならない。結局のところ、エスペラントの存在意義は言語そのものではなくて、それを使用する人と方法にかかっているのである。

この考え方に基づくと、かつてエスペラントを公用語にしようと企てたエスペラント話者がいたが、それは完全に誤りということになる。今後も、国家がエスペラントを所有するに近い事態はあってはならない。

国家の集合や代表、すなわちEUや国連であっても同様だ。エスペラント主義を共有しない人が、必修だからとか就職に有利だからとかの理由で選ぶようであっては、エスペラントは根本的に無価値になってしまう。エスペラントが、英語から学ぶべき点は限りなく多いと俺は思う。

言語権とエスペラント

エスペラントは、20世紀後半からは前記のような言語帝国主義的状況に対して問題を提起する言語として主張してきているが、それはひとつには、少数民族や言語を保全する理論や運動、ようするに多様性を尊重する機運が活発になり、その理論に接近してきたからだ。特にエスペラントの支持者(ファン)が多いEUでは、EU内での言語的多様性を尊重するムードが確立しており、少数言語を継承していくことが言語権として認められている。

というのも、EU諸国には自国言語を認めさせたい、という戦略があるが、スロベニア語のような弱めの国語を尊重するなら、どうしてウェールズ語のような一(連合)国内の少数言語を尊重できないのか、という論理になってしまうからだ。

ウェールズ語は、ウェールズ民族の言葉として少数民族言語化しているというよりも、ちょうど日本の方言のように、イギリス人という同一民族内での少数言語として扱われている。現在、ウェールズではみんな英語も話せるわけだ。

では、EU内でのエスペラントはどうか。エスペラントという少数言語話者のコミュニティが離散していながらも実際にあるわけだから、同様に認めさせられないのか、という理屈である。エスペラント話者は、みんな、それぞれの国の言葉(や他の言葉)も話す。同じEU市民だ。

言語は思想を媒介するツールなのだから、これは理屈してアリである。たとえば「ユダヤ人」がイスラエルでヘブライ語を話すようになったのも、言語を復興した結果である。

以上のように、エスペラントはそれ自体が少数言語として存在を主張している。かつ、当初の企てとしての、共通語としての大志も捨てていない。少数言語なのに共通語、という一見矛盾するようなポジショニングが、エスペラントの現在の特徴になっている。

さて、EU内における一国内の言語多様性の議論を持ちだしたのは、日本もまた似たような状況に立たされるからだ。

日本が世界(または東アジア共同体でもいいが)における日本語の地位を保全しようとするなら、弱い言語として、その主張として多様性の保護を持ち出さないわけにはいかない。そうすると、日本国内での言語多様性を保護しないと理屈が通らないのである。

日本という国家のもとでは日本語が上位言語であり、方言等が下位言語である。
実際、アイヌ語話者はほとんどいないし、日本全国にある方言も明治以降、顕著に失われてきており、さらには奄美や沖縄の日本語でなかった諸語でさえ、日本語の「方言」化している。全国的に許容されるのは関西弁のような一部の方言だけで、それにしたって書記言語という面ではかなり弱い。そして、保存行為、例えば外国人向けにそのような方言を教える機関など、ほぼ皆無だ。

問題なのは、以上の状況に対して日本人はだいたいが無関心なのである。方言と標準日本語との関係をほとんど全く意識していない。方言を愛する人はたくさんいるが、自治体等では、方言を追放しないまでも、守るために活動しているところは、なかなかない(幸いなことに我が博多弁には「博多にわか」という大衆的な伝統芸能みたいなものがあって、愛好家がいるが)。というか、メディアにそう取り上げられないのでわからない。義務教育然りである。結局のところ、国民の関心が非常に低いために、国の政策もそれを反映しているのが今の日本の現状である。

加えて、この問題を考えるときには「在日」と朝鮮語の存在も意識しないわけにはいかない。経緯がどうあれ少なくとも100年も根付いているのだから、単なる「外国人」と「外国語」ではないことは明らかである。こちらについては、その経緯として少数民族としてのアイデンティティが強いのでその点も考慮する必要があるだろう。また、数は比較的少ないとしても在日中国人・台湾人もいる。

が、そのような在日を考慮するとすれば、今度はいわゆるニューカマーはどうなのか、という問題が出てくる。それは日系であり、フィリピン系、中国系2世だったりする。もう30年近く住んでいるそういう人たちの言語も考慮するとなれば、これはもう完全に移民国家と同じである。

言語帝国主義に反対して言語多様性を尊重する議論に加わってしまうと、移民国家並みの寛容さでもって接する必要があるが、実はこれは論理展開として全うであり、健全な先進国の姿なのだと私は思う。論理的帰結の必然により、EUでもイスラム系やアジア系移民の言語を尊重しないとしょうがないだろう。

言語帝国主義へのオルタナティブとしてのエスペラント

エスペラントは英語=アメリカの覇権へのオルタナティブと書いた。もう少しきつめの言い方をすれば、「言語帝国主義へのオルタナティブ」となる。

言語帝国主義というのは、ようするに強い言葉が世界を支配するのは当然、という考え方だ。この考え方の下では、弱い言葉は弱い立場に甘んじるのはしょうがないし、少数言語のようなとても弱い言葉は消滅するのも避けられない、という論理的帰結になる。持続可能な社会のために生態系の維持を模索している現代人にとっては、言語帝国主義の否定は一定の説得力を持っていると思われる。

しかし現実を見れば強い言葉が世界を支配している。やはりそれが自然じゃないか、と思う人も多いだろう。もっともであるように感じられるのは、実は日本も言語帝国主義の国家であり、その中で生活していると自然とその主義を内化していくからだ、と言われればどうだろう?

世界的には、共通語としては英語が強い。そうすると日本語というのは弱い言語なので、そのうちに方言のような地位に転落していく運命のように思われる。言語帝国主義のもとでは仕方ない論理的帰結だからだ。アジアのエリート層の一部は、今のうちから子どもを英語圏の大学を卒業させるべく準備しているが、そういう事態を想定しているからに他ならない。

こういう状態がエスカレートしている国として、俺の知る限り今のフィリピンがある。英語ができないと、それだけで教養がない、というような偏見がまかり通るダイグロシアな社会である。そして、商業的、学問的、文学的にフィリピンは他の英語国より立場が弱いので、自国として「正しい英語」の内容をコントロールできないどころか、出版物、各種資格試験などを外国製のものに依存するというびっくりな状況になっている。

言語帝国主義を容認するということは、日本がそのうちフィリピンみたいになるのはしょうがない、と言っているようなものだ。日本でも英語が公用語になると、ローカル日本人は冗談じゃなく不利になるのは目に見えている。では日本として言語帝国主義に反対なのかというと、実際には日本は日本語を国語として行き渡らせるために、言語帝国主義の論理を貫いてきた。

エスペラントの向かう先

旅の振り返りシリーズ。何回かに分けて書きます。

今回の旅では、メキシコのエスペラント話者と会って、集まりを開いてもらったり、泊めてもらったり、町を案内してもらったりした。みんな、メキシコに来るまでは連絡したこともなかったような人たちで、これからまた会う機会があるのかすらわからないが、最近はフェイスブックもあるので頻度はともかくとして連絡は続けるだろう。

知らない土地への旅行を充実させるために利用するエスペラントというのは、本来の使途の想定とは多少違うのかもしれないが、現代的には最も有用な使い方だと思う。ところで、ほとんど同じようにカウチサーフィンも利用したのだが、両方とも長所があり、タイプの違うテーマ・コミュニティを行き来できるというのはいい時代だと再認識した。

エスペラントを話しながら、久しぶりに「なぜエスペラントか」を考えた。エスペラントがどこへ向かっていくのか、行くべきなのか、将来性はあるのか、なんかを自分なりに考えた。

エスペラントは、英語にとって替わるような言語にならないのは明らかと思われる。俺はこれからの世界で中国語が覇権言語になるとも思わないし、フランス語もスペイン語も無理だろう。英語は既にシェアをとっているし、成長著しいアジアの共通語も英語なんだから将来的にも安泰だ。だがエスペラントは20世紀に英語(=アメリカ)の覇権へのオルタナティブとして自身を主張してきたのだから、この論理を貫くならば、逆説的だが、英語が栄える限り衰えない。現に、エスペラントが比較的多く学ばれている国は、アメリカに対抗意識を燃やしている国である(EU諸国、中国、日本、韓国、ベトナム、キューバ等、+アメリカ人の左派)。

ということは、エスペラントは現状の鳴かず飛ばずな状態を今後も続けていくことになる。

そうだとすれば、エスペラントを学ぶ意義というのは、現在あるようなエスペラントのコミュニティに参加できる、ということに尽きると思われる。というのは、平たく言えば言語とオルタナティブな世界に関心を持つ人の一部による世界的なネットワークである。言語学者にとってはそういうネットワークは特に魅力的かもしれない。

それ以外の人は関わらない方がいいと思う。まあ、そんなことを敢えて言う必要もないんだろうが。