「英語の帝国」とフィリピンと日本

フィリピンでは今や家庭で自分の子どもに英語で話しかけ、わざとタガログ語を教えない教育が中流以上で盛んだが、これはなにもフィリピンだけの話でなく、歴史的にスコットランドやウェールズでも起きていた、という。子どもの将来のために、庶民が自発的に伝統的な母語を捨てるいわゆる「自殺」は、英語の帝国の一部になる最終段階だということが、下の本によく書いてある。

「英語の帝国 ある島国の言語の1500年史」平田 雅博(2016)

英語の帝国 ある島国の言語の1500年史 (講談社選書メチエ)
平田 雅博
講談社
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言語の絶滅はいつの時代もゆっくり起きるもので、まずその言語だけを話す単一話者がいなくなり、(オランダ語などのように)他の言語との2言語話者となる時期があり、そしてそのうちに(アイヌ語のように)その言語を母語とする人がいなくなる。交代する理由はいつでも、より強い言語の方が有利だから。征服の結果としてある言語が禁じられることもあれば、恥ずかしくなって自主的に使わなくなる場合もあるだろうが、結局は強い言語に話者は流れている。上の本で英語の帝国のピークも既に去っている、という説も紹介されているように、英語もいつかはより強い言語に席を譲る日が来るかもしれない。それはさておき、、

フィリピンでの短期英語留学やオンライン英会話が増え始めた10年ぐらい前に、俺が批判的だった理由は「フィリピン人が自慢にしている英語は、しょせんアメリカの真似をした英語であって、フィリピン人が誇れるような文化ではない」ということだった。旧植民地のねじれたプライドみたいなもので、健全ではない、と思った。

しかしながら、上記の本を読む中でよくよく考えてみれば、帝国の言語=英語を学ぶという時点で日本人も十分ねじれたプライドを持っており、同類でしかなかった(本の中では旧植民地であるフィリピンと、日本では別のグループとして分類されているが)。健全とか健全でないとか、そんなものはないのだな、というのが読後の自分なりの結論となった。 

同様に、日本で子供に(自分が話せもしない)英語を習わせる風潮についても、歴史的にどこででも行われてきたわけであってとりわけ日本人の頭がおかしいわけではなく、さらには英語を学んだ結果、新しい世代が「美しい日本語」を話せなくなったとしても、それは次のレベルに進んでいっただけのこと。

フィリピンも日本も段階が違うだけで同じようなもんだ、と思えるようになったのが一番の収穫だった。

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言語権とエスペラント

エスペラントは、20世紀後半からは前記のような言語帝国主義的状況に対して問題を提起する言語として主張してきているが、それはひとつには、少数民族や言語を保全する理論や運動、ようするに多様性を尊重する機運が活発になり、その理論に接近してきたからだ。特にエスペラントの支持者(ファン)が多いEUでは、EU内での言語的多様性を尊重するムードが確立しており、少数言語を継承していくことが言語権として認められている。

というのも、EU諸国には自国言語を認めさせたい、という戦略があるが、スロベニア語のような弱めの国語を尊重するなら、どうしてウェールズ語のような一(連合)国内の少数言語を尊重できないのか、という論理になってしまうからだ。

ウェールズ語は、ウェールズ民族の言葉として少数民族言語化しているというよりも、ちょうど日本の方言のように、イギリス人という同一民族内での少数言語として扱われている。現在、ウェールズではみんな英語も話せるわけだ。

では、EU内でのエスペラントはどうか。エスペラントという少数言語話者のコミュニティが離散していながらも実際にあるわけだから、同様に認めさせられないのか、という理屈である。エスペラント話者は、みんな、それぞれの国の言葉(や他の言葉)も話す。同じEU市民だ。

言語は思想を媒介するツールなのだから、これは理屈してアリである。たとえば「ユダヤ人」がイスラエルでヘブライ語を話すようになったのも、言語を復興した結果である。

以上のように、エスペラントはそれ自体が少数言語として存在を主張している。かつ、当初の企てとしての、共通語としての大志も捨てていない。少数言語なのに共通語、という一見矛盾するようなポジショニングが、エスペラントの現在の特徴になっている。

さて、EU内における一国内の言語多様性の議論を持ちだしたのは、日本もまた似たような状況に立たされるからだ。

日本が世界(または東アジア共同体でもいいが)における日本語の地位を保全しようとするなら、弱い言語として、その主張として多様性の保護を持ち出さないわけにはいかない。そうすると、日本国内での言語多様性を保護しないと理屈が通らないのである。

日本という国家のもとでは日本語が上位言語であり、方言等が下位言語である。
実際、アイヌ語話者はほとんどいないし、日本全国にある方言も明治以降、顕著に失われてきており、さらには奄美や沖縄の日本語でなかった諸語でさえ、日本語の「方言」化している。全国的に許容されるのは関西弁のような一部の方言だけで、それにしたって書記言語という面ではかなり弱い。そして、保存行為、例えば外国人向けにそのような方言を教える機関など、ほぼ皆無だ。

問題なのは、以上の状況に対して日本人はだいたいが無関心なのである。方言と標準日本語との関係をほとんど全く意識していない。方言を愛する人はたくさんいるが、自治体等では、方言を追放しないまでも、守るために活動しているところは、なかなかない(幸いなことに我が博多弁には「博多にわか」という大衆的な伝統芸能みたいなものがあって、愛好家がいるが)。というか、メディアにそう取り上げられないのでわからない。義務教育然りである。結局のところ、国民の関心が非常に低いために、国の政策もそれを反映しているのが今の日本の現状である。

加えて、この問題を考えるときには「在日」と朝鮮語の存在も意識しないわけにはいかない。経緯がどうあれ少なくとも100年も根付いているのだから、単なる「外国人」と「外国語」ではないことは明らかである。こちらについては、その経緯として少数民族としてのアイデンティティが強いのでその点も考慮する必要があるだろう。また、数は比較的少ないとしても在日中国人・台湾人もいる。

が、そのような在日を考慮するとすれば、今度はいわゆるニューカマーはどうなのか、という問題が出てくる。それは日系であり、フィリピン系、中国系2世だったりする。もう30年近く住んでいるそういう人たちの言語も考慮するとなれば、これはもう完全に移民国家と同じである。

言語帝国主義に反対して言語多様性を尊重する議論に加わってしまうと、移民国家並みの寛容さでもって接する必要があるが、実はこれは論理展開として全うであり、健全な先進国の姿なのだと私は思う。論理的帰結の必然により、EUでもイスラム系やアジア系移民の言語を尊重しないとしょうがないだろう。