ダバオから福岡への引き揚げ船

備忘録。

「沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子」高木凛

沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子
高木 凛
小学館
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より、福岡で照屋が沖縄人向けに漁業を立ち上げるにいたる経緯を書いた節。ここに、当時の沖縄出身引揚者の様子を垣間見ることができる記述がある。そもそも、ハワイ、ブラジルやフィリピンなどへの集団移民では、沖縄出身の人々の割合が高く、また当時は移民先でも沖縄県人は内地の人から差別されていたとされる。以下の引揚者は、おそらく民間人だと思われるが、本文中にはその記述はない。

p86
前略

フィリピンなど南方移民の引揚者が三万人余りも学校の体育館や軍需工場の寮跡の建物の中に詰め込まれていた。寒さと栄養失調で病死者が続出、燃料も底をついていた。遺体も満足に焼くことが出来ず、そのまま野積みされてとても正視できる状態ではなかった。

p87
福岡―引揚民二週間で百名葬る。餓死者はまだ出ていないが比島、ダバオから引揚げできた沖縄県民二千三百名が着る物もなく襲い来る寒さに震え、ただ一枚の毛布に身を包み、極度の栄養失調に歩くことも出来ない状態で、国民学校の講堂の板の上に呻吟している。彼らのうち福岡到着後一週間で百余人が死んだが、これら引揚者に対する衣食の供興も沖縄県事務所では不可能なので、県及び福岡市役所が世話している

オキナワグラフからの孫引きだが、
p88
とにかく何百人というフィリピン引揚者を市内の小学校に寝泊りさせ、そのお礼として学校給食用にトラック一台分の魚を寄付しました。朝になると授業があるので市内の各寺院に分散収容した。そのうちに毎日死人が出る。それを火葬にする燃料の石炭がない。仕方がないので、那覇市職員だった若い人たち四、五人に頼んで、夜こっそり博多駅から石炭を盗ませ、郊外の姪ノ浜火葬場で焼いた。ところが、石炭の量が足りずに、反焼きにしたホトケもあり、その死体を野犬がかじっていた

引用ここまで。やはり福岡に帰ってからも、戦後直後はかなり悲惨だったようだ。さらに沖縄本島は大変な有様だったと思われる。

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