16,17世紀サンボアンガの歴史

サンボアンガの歴史。英語で、Tony Cabrestanteの著名で長文の解説がある。
http://www.zamboanga.com/html/history_zamboanga.htm

まず、原住民は陸続きでやってきたネグリートとする。フィリピン諸島で共通。今の地形を見る限り、当時はパラワンとスール―諸島がそれぞれボルネオとくっついていたのだろう。

次にサンボアンガへ渡ってきたのはスバノン族。その後、バジャウ、サマル(この名前はフィリピンでよくある民族名だが、それぞれ別々と考えるべきだろう)、ヤカン、タウスグ。このうち、最後のタウスグが一番強かったようだが、スペイン人が来た時点ではスバノン族もかなりいたようだ。

ちなみにサンボアンガという名前はサマルやバジャウが使っていた”sabuan”という、ビンタ(ボート)を陸付けするための柱がたくさんあるところ、という意味の”samboangan”に由来するという。その前はスバノンは「花のあるところ」という意味の”Jambangan”で呼んでいたという。

さて、1595年にはじめてスペイン人がサンボアンガに基地を作ったとき、今のフォート・ピラールのあるところではなく、カルデラ湾(Caldera bay)の”Barrio Recodo”という場所が拠点だった。今はイワシの缶詰工場がたくさんあるところ(地図+航空写真を参照)で、アヤラの手前だ。この地区は漁民ばかりで、見た感じ貧しいムスリムがたくさんいるところで近づきがたい。

当時作られた基地は維持する資金がマニラになかったのですぐに放棄され、その後40年近くサンボアンガからスペイン人はいなくなってしまった。戻ってきたのは1634年、今度は今の旧市街のところを制圧し、翌年にはフォート・ピラールの原型となる砦を作った(その後、また放棄して何十年も経って戻ってきた後に再建したのがフォート・ピラール)。

そんなわけで、フォート・ピラールができる前にはチャバカノ語が使われるための要素は確認できない。

当時の記述は、日本語訳されているモルガの古文書「大航海時代叢書〈第I期 7〉フィリピン諸島誌」にもたくさん載っている。古書にしては珍しく、送料込みで1000円以下で手に入るのでオススメです。

大航海時代叢書〈第I期 7〉フィリピン諸島誌
モルガ
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最後に、サンボアンガの歴史については、以下のブログでも文献紹介がある。非常に興味深い。
https://spotswings.wordpress.com/notes-on-zamboanga-from-the-founding-of-la-caldera-in-1595-to-the-cholera-of-1916/
https://spotswings.wordpress.com/2014/01/27/zamboangabiblio/

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続・チャバカノ語研究 ~旧日本軍票~

昨日の続き。ダバオのチャバカノ語について、

Zamboangueño Creole Spanish by John M. Lipski and Salvatore Santoro
Comparative Creole Syntax ppp-pp (2000)

の導入部で、

“Whinnom (1956), who was unable to visit Davao, claimed Davaeño as a separate Chabacano dialect, but contemporary Chabacano speakers in Davao all speak the Zamboanga dialect and consider themselves—often with little factual information at their disposal—as part of the Zamboangueño diaspora.”

少なくとも現代では”castellano akabay”と呼ばれるようなものはない、といっている。ない証明というのは容易にできないとは思うが、まぁどこを探してもないのなら、ないという他ないですね。

しばらくダバオで終戦を迎えた人についての日本語文献を読んでいて、当時の人たちは「チャバカノ語」というのを単に「ブロークンなスペイン語」、もっと詳しく言えば共通言語としてのピジンという意味で使っていたということがよくわかった。その上で上の論文の導入部を読むと、サンボアンガのチャバカノ語がブロークンなスペイン語というイメージに「覆われていた」という意味がよくわかってくる。区別されずにいて、独自の文法と母語話者を持つれっきとしたクレオール言語だということは、20世紀に入って「発見」されなければならなかったわけだ。その歴史自体、興味深い。

さて、次に進もう。

Forman(2001)
Confidence in Chabacano: Counterbalance to a western ideology of language

は、私がしばらく前から疑問に思っていたチャバカノ語の文法上の特性、すなわち他のメジャーなフィリピン諸語と違って受身もしくは目的語フォーカスのシステムがないことについて触れている。システムなしに、単に動作主としての主語を省略することで受身のニュアンスが発生するというのは、不思議。しかし、実際にそうなのだから仕方ない。

日本人に関係している箇所としては、孫引きになるが、Caminsが1999に発行してサンボアンガ市役所で配られていたらしいチャバカノ語入門+辞書には、”jacka”という旧日本軍の軍票を指す単語が載っているらしい。Formanはそれについて、”j”の発音が実際どうだったのか不明だ、といっている。発音はともかく、普通に考えると”J”は日本の”J”だろう。なんとなく、隠語っぽい。

一応、軍票について見てみると、”Japanese”と英語で書いてある。ちなみに、フィリピンで使用されたのは「ほ号」軍票。
http://chigasakiws.web.fc2.com/gunpyou-2.html
http://yakumo1100.blog.fc2.com/blog-entry-391.html

今日はここまでにしておこう。また気が向いたら研究を再開したい。

続・チャバカノ語研究 ~戦前日本人の証言~

注)この記事はほとんど論文です。長いです。

戦前・戦中とフィリピンのダバオにはたくさん日本人がいた。たとえば2万人とか。しかし、当時の町全体の人口がわからないことにはこの数字はまだ迫力が欠ける。なんせ、この時代には日本人はアジア・オセアニアに出まくっていたのだから。

ネットで入手できる論文としては、たとえば、

大野俊 「ダバオ国」の沖縄人社会再考 – 本土日本人,フィリピン人との関係を中心に –

この論文では、1937年に、ダバオ市の全人口が45,579人とある(日本人=11,487人、クリスチャン・フィリピノ(ビサヤ人、イノカノ人等)=26,731人、非クリスチャン・フィリピノ(先住民系)=6,209人、その他の外国人は中国人を中心に1,152人)。

なるほど、たしかに多い。20%というのは、今の新宿区の中国人が2倍になったようなもの。「ダバオ国(グオ)」と呼ばれるのもわかる。ところで、現在ダバオにフィリピン最大の中華街があることを考えると、「中国人を中心に1152人」しかいないというのは気になる。これはまたの機会にもっと調べたい。

さておき、この論文には7ページ目と9ページ目にチャバカノ語が登場する。まず、

こうした外見,言葉,生活習慣などの違いを認識 した地元フィリピン人は,沖縄移民を日本本土移民 とは区別 し,地元のチャバカノ語で 「オ トロ ・ハボン(OtroHapon)」,すなわち 「別の 日本人」 と呼んだ。 この言葉は,沖縄移民二世の子供たちに対 しても純血,混血を問わずに使われた

9ページ目は、

当時,ダパオで共通語に近かった言語は,スペイ ン語 と土着の言語が混成したチャバカノ語だった。その言葉 の中のい くつかは,沖縄移民の間でよ く使われるよ うになった。 「コンパ(compa)」 (共同,共同事業),「パタイ (patay)」 (死ぬ),「タンキ (tangke)」 (水タンク),「ギリン ・ギ リン (gilinggiling」 (頭がおか しい) などである。一方で, 麻の引き屑の中でよく育った 「ナ-バ」 (キノコナ/†) という沖縄方言が現地人の間に広がって使われていた という(金武町史編さん委員会 1996a:301)。 こうした言葉の 「相互乗り入れ」は,沖縄人が労働現場などで本土 日本人以上に深 く地元フィリピン人 と交流 していた証と考えられる。

これが今回のテーマ。このような日本人が残した記録や証言の検討は、チャバカノ語研究ではおそらく前人未到の領域だろう。

上の論文では「チャバカノ語」が共通語に近かったと書いてあるが、さてここでの「チャバカノ語」は実際にはなんだったのだろうか。私の考えを先にいうと、単なるピジンだったのだと思う。ようは、文法を適当に省略したスペイン語の上に、適当に現地系(タガログ語とかビサヤ語とか)の単語を載せたようなものだったのだと思う。そういう意味で、現在また当時サンボアンガ等で話されている(た)のとは別の系統。

まず7ページ目からスタート。”otro hapon”はたしかにチャバカノ語だろう。スペイン語では「別の日本」になってしまって「日本人」という意味にはならない。しかし「hapon」はタガログ語では「日本人」の意味でも使われる一方、”otro”は少なくとも現在は使われない。一方、ビサヤ語では”otro”は「繰り返す」の意味なので、消去法でチャバカノ語としよう。

次、9ページ目。”compa”や”giling-giling”は聞いたことのない単語だが、”patay”や”tangke”は今のタガログ語やビサヤ語にもある。
おそらく”compa”は”compartido”かなんかのスペイン語から来た単語、そして”giling”はタガログ語で「挽く」だから、「ぐるぐる回す動作が『くるくるぱー』に似ている」とかかもしれない。どれも、チャバカノ語プロパーの単語、というには弱そう。

「チャバカノ語」という名称を当時の日本人が何に対して使っていたのか、というのはちょっと興味深いトピックである。他の文字化された証言もネットで探してみよう。

まず、NHK。当時ダバオに住んでいた田口タダシさんは、お父さんがチャバカノ語を話せた、という。その部分を抜粋すると、
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110570_00000

父と母は母語が違っていたので、チャバカノ語(ミンダナオ島南西部のスペイン語に近い言葉)、セブアノ語(セブ語、ビサヤ語とも)、イスラム教徒の部族の言語などを交えて話していました。

もちろん田口タダシさんはカッコの中の言葉は喋っていない。「(ミンダナオ島南西部のスペイン語に近い言葉)」というのはNHKの人がサンボアンガのチャバカノ語と混同して後で勝手につけたと思われる。そもそも、ダバオは「ミンダナオ島南西部」ではなく、日本人であるお父さんは戦前にダバオで働いていた、ということなので南西部の言葉を身に着けていた可能性は低いのではないか。

証言によれば、お母さんも話せたというが、この人はダバオ生まれではないか。ここでのチャバカノ語は、ダバオで知り合った二人が共通語として話せた言語だとすれば、やはりピジンの方が納得がいく。言いたいのは、彼らが身につけていたのはクレオール言語の方ではない、ということ。

次に進もう。沖縄の読谷の村史にもダバオで終戦を迎えた人の証言がある。以下、チャバカノ語らしいものが出てくるところを抜粋。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm

十二月二十五日、私達の収容されていたフィリピン・ハイスクールが面する道路上に遂に戦車が来た。戦車の傍らには若い中国人の通訳がいて、現地人に向かって「アーモーベニ、アーモーベニ(先生のように偉い人が来たという意味、つまり偉い日本軍が来たという意)」と叫んだ。

「アーモーベニ」が”amo vene”だとすると、 チャバカノ語らしい。珍しく2語文である。スペイン語だと”viene”となるところ、サンボアンガのチャバカノ語と同じく”v(b)ene”である。ここでも、中国人の通訳はやはりクレオール言語ではなく、ピジンを話していたのではないか。ただし、本人は自分の話していたのを以下のようにスペイン語と言っている。

私はスペイン語には不自由しなかったので

先の方にも、渡航前にスペイン語の訓練を受けたとか書いてあった。少なくとも、戦前のダバオの共通語はスペイン語だったということはわかる。「チャバカノ語」は、海外の文献を見ても、変なスペイン語という語源だとされているし、うまく話せない人が卑下するときにも使っていたのではないだろうか。

では、最後に「フィリピン残留日本人2世・集団帰国者一覧」から。

まず新ビエンベニドトシオさん。
父は、1939年頃にダバオデルスル州マララグ町に来て、炭焼きの商売をしていた。父は現地語であるチャバカノ語を話すことができた。

次はサトウ・ラモン&ヘンリーさん。ただし、おそらくマギンダナオ州。
父は現地語であるチャバカノ語や母の部族であるティドュライ族の言葉を話すことができた。

現地語がミンダナオ中どこでもチャバカノ語だった、というよりは、当時までスペイン語が共通語だった、ということだろう。でも、スペイン語がペラペラの人は少なく、みんなピジンで話していた。

ここで新たな疑問が出てくるのだが、ではミンダナオ以外のフィリピンでは戦前の共通語はどうだったのだろうか。どこでもチャバカノ語と呼ばれていたのだろうか。気になる。

ひとつのヒントは、英語版のwikipedia。それによれば、ダバオとコタバトにはそれぞれチャバカノ語の方言と認められるものがある、とされていて、ダバオの変種は別名”castellano abakay”、そして中国語と日本語のどちらの影響が強いかによって2つに分けられるという。

The other dialects of Chavacano which have, primarily, Cebuano as their substrate language are the Mindanao-based creoles of which are Castellano Abakay or Chavacano de Davao (spoken in some areas of Davao), this dialect has an influence from Chinese and Japanese, also divided into two sub-dialects namely Castellano Abakay Chino and Castellano Abakay Japón,

ダバオのチャバカノ語は、”castellano abakay”という別名がついているが、私の推量では”abakay”は主要産業であったアバカ。下のウェブサイトによれば2000年センサスでは59,058人の話者がいたという。ただ、具体的なコミュニティの名前など出てこない。
http://www.nativeplanet.org/indigenous/ethnicdiversity/asia/philippines/indigenous_data_philippines_davao_chabakano.shtml

しかし、Chabacano (Philippine Creole Spanish)
Oceanic Linguistics Special Publications
No. 14, A Bibliography of Pidgin and Creole Languages (1975), pp. 210-216
http://www.jstor.org/stable/20006595?seq=1#page_scan_tab_contents

を読むと、上記の主張はWhinnom(1956)にもとづいているのではと思えてくる。以下、上の文献から反論を抜粋。

Although Whinnom(1956) mentions another offshoot called ‘Akabay Spanish’ spoken at Davao from about 1900 on, his information is of doubtful authenticity. Whinnom also notes that for some years a ‘Bamboo Spanish’ pidgin was spoken at Davao between Japanese settlers and Filipinos. The term Davaueño or Dawaueño was applied by the census takers to a mixture of Tagalog and Cebuano with a little Spanish.

研究は続く。

(おまけ1)
Navi manilaの記者がダバオで、チャバカノ語が話せる人を探してみた、という。ようやく見つけたと思った人が話したのは、正統スペイン語だったという。結局、英語に対する「タグリッシュ」のように、自分のスペイン語を卑下している言っているだけだったのだろう。

マニラ新聞デスク日記
http://navimanila.com/travel/scenerymindanao.html

言語のルーツ(とチャバカノ語)

クレオール関係の本を検索しているうちにたどり着いた本。本題はタイトルの通り。

「言語のルーツ」デレク・ビッカートン(1981=1985)

言語のルーツ
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日本語訳がわけわからんときがありますが、それでも後半あたりからは面白くなってきます。

理論言語学の人たちからすればこの本は古典の仲間に入るのでしょうが、クレオールの研究をもとにチョムスキーとは別のアプローチで「言語の生物プログラム仮説」を説明していくさまは、興味深いです(といって、私はチョムスキーを直接読んだことはないのですが)。

wikipediaの「ビッカートン」紹介によれば、ビッカートンはその後、生物言語学に進んでいき、チョムスキーとかと同じ方面で研究を続けているようです。

私からすると、生物言語学とか理論言語学の研究をするんなら、最初からフィールドになんか行かなくてよかったんじゃないか、と思わなくもないです。ビッカートンにとっては、若気の至りだったんでしょうかね。

さて、ここからは脱線していきますが、本書の中に出てくるクレオールの定義によれば、俺がやっているチャバカノ語はクレオールに含まれないかもしれません。チャバカノ語は、下の2点を真とすれば、典型的なクレオールではありません。

理由その一、そもそもポルトガル系クレオールがその祖先にある可能性。
理由その二、文法の骨格が明らかにフィリピン諸語のものである点。

上記から、ようするにいつ頃にどこで生まれたかも確定できないので、クレオール化にどの程度の時間がかかったのかもわかりません。はっきりしているのは、現在のインドネシアの北マルク(Maluku)州テルナテ島と同名のテルナテ町がフィリピンのカビテ州にあり、そこにチャバカノ語の拠点のひとつがあること。この町の歴史については、まずウィキペディアの「チャバカノ語」に、
「カヴィテ州周辺のチャバカノ語は、モルッカ諸島(現在のインドネシア)のテルナテ島にいたマレー系部族のメルディカ人(Merdicas)が現在のテルナテ町周辺に移住したことによる。テルナテ島は一時ポルトガル人が植民地化したが、後にスペインの植民地となった。そのうち一部の人々が1574年、スペイン人の呼びかけに応じてルソン島に渡りカヴィテを本拠に中国人海賊(林鳳)との戦いに備えた。結局リマホンの襲来は起こらなかったが、メルディカ人共同体はマラゴンドン川(Maragondon River)河口周辺に住み続けた。現在ではその地がテルナテ町と呼ばれ、メルディカ人の末裔はポルトガル語の影響を部分的に残したスペイン語クレオールを使い続けている。」とあり、また同じくウィキペディアの「テルナテ島」の記述によれば、
「スペイン人は~中略~1606年にテルナテ島のポルトガル人が築いた砦を占拠し、スルタンを捕まえてマニラに移送した。」
となっています。

ウィキペディア英語版のテルナテ島では、ポルトガル人が現地のスルタンの許可を得て要塞を作り出したのが1522年。そして、スペイン人による城塞都市「マニラ」が作られたのは1571年から。ここから察するに、ポルトガル語系クレオールが生まれたとするなら、1522-1574年の間としなければなりません(もちろん、ピジンは要塞を作り始める前からあったでしょう)。そしてその言語がテルナテ島で使用されていた段階で既にスペイン語の語彙に入れ替わり、メルディカ人の一団によってマニラの方にもたらされた後、現在のチャバカノ語の原形になった、ということです(ちなみに、Lipski等の学者が言っている説は日本語版の「チャバカノ語」の項の説明とは違う部分がありますので注意。)。

私としては、マニラについてからメルディカ人の2世が現地でクレオールを始めた気がしてなりません。テルナテ島では、現地語を継承するかぎりクレオールを生み出す必要がありませんから。もしそうだとすれば、上に書いた理由その一は先行ピジンにしか関係なくなります。理由その二は、現地社会の優勢言語のひとつがタガログ語だったとすると生まれたときからの宿命だったと思われます(そうするとビッカートンの定義からは外れ、彼の言う「クレオール」には含まれなくなります)。

しかし、ここで疑問がひとつ。メルディカ人はそもそもテルナテ島では母語として何語を話していたのでしょうか。マレー語だったのでしょうか。だとすれば当時のマレー語をちょっと調べなきゃ。。

サンボアンガのチャバカノ語の文法を見ているとタガログ語と相当近いところもあり、いったん生まれてからタガログ語に近づいていったのか、最初からそうだったのか、または実は他のフィリピン諸語の影響なのか、ちょっとわかりません。いかんせん、1600年から最初の言語学的な資料が出てくる20世紀前半までの間に時間がありすぎて、ビッカートンが知りたいような情報はチャバカノ語からは得られそうにありません。

サンボアンガのチャバカノ語については、再びウィキペディアによれば、
「かつてスペイン領フィリピンはメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)に属しており、1635年6月23日に要衝サンボアンガにサン・ホセ要塞(現在のピラール要塞)が着工した後、ルソン島のカヴィテ州やヴィサヤ諸島のセブやイロイロから派遣された労働者たちがスペイン人やメキシコ人の兵士たちとともに建設に従事した。これにより多様な言語が混ざり合い、その後もスペイン人宣教師・軍人がサンボアンガの政治や宗教に影響を与える過程でスペイン語化が進んだ。」
となっていて、上の仮説から言ってもたしかにピラール要塞を作り始めた頃にクレオール世代がサンボアンガに行って、現地で共通語がない中で主要言語になった、というのは納得がいきます。ただ、マニラ地方で生まれてから20年弱しか経ていないホヤホヤの言語が異なる場所で独自に発展していったとすると、カビテ・テルナテのチャバカノ語とサンボアンガのチャバカノ語が今でも相互理解できるほどに文法的に類似しているのは、ちょっと無理があるのではという気がしなくもないです。定期的に人の交流があったとすれば別ですが。まぁ、あったのかなぁ。

以上、来週末5年ぶりにサンボアンガへ行くので、ちょっとチャバカノ語の歴史を調べ直してみました。いやはや、興味が尽きない。

エルシャダイ&エルミタの語源

数年前に亡くなった西本至は、マニラで数十年にわたって活躍した日本人神父。個人的に面識はなかったが、エッセイ集がいくつかあって興味あったので買ってみた。

よあけの神父―フィリピンよもやま話
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「よあけの神父」(1997)

たそがれの神父―こころのふるさと、フィリピン物語
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「たそがれの神父」(2000)

全体としては、やはり神父の本だな、と。もっとマニラにいる日本人についての話が書かれているかと思っていたので残念。ただ、中には彼のような人でないと知り得なかったようなことも書かれている。

たとえば、エルシャダイについて。フィリピンでは一種の宗派を表す単語のようだが、この単語自体はキリスト教世界ではわりとよく使われているようで、俺がエクアドルにいた時にも店の看板とかで見かけたこともある。ただ、知り合いの誰に聞いても意味をわかっている人がいなかった。不思議な単語だな、と思っていた。

「たそがれの神父」によれば、古ヘブライ語で「偉大な神」、「全能の神」という意味だそうで、そしてこの単語をマイク・ベラルデ師が使ってラジオで呼びかけを行ったことから、この宗派自体が「エルシャダイ」という名前になったのだそう。これについては、英語ウィキペディアでも記事がある(参照)。

次に、マニラ市エルミタという地名の語源。これも英語ウィキペディアに記事がある(参照)のだが、「たそがれの神父」の方が記述が細かい。かいつまんで書くと、スペイン語で「隠居」という意味の”ermita”は、マゼラン遠征隊によって16世紀に(セブに!)持ち込まれて以来、ひっそりとマニラで匿われていたマリア像から来たという。マゼラン遠征隊が来たのが1521年、そして次のレガスピ遠征隊がマニラに来たのが1571年というから、実に50年。

ちなみにそれ以降、スペイン人はマニラに拠点を作るようになり、ザビエルを始めとして(マニラのある)ルソン島から日本に布教活動をしに出かけて行ったということだそう。こういう歴史の流れで考えてみると、実はスペインの手によるマニラ(イントラムロス)は当時できたばかりだったということがわかる。そしてその頃には中国人も日本人もマニラ(壁の外)に一定数住んでいたわけで、実に雑多だったと想像できる。

エルミタといえば、20世紀前半まで「エルミタ語」、もしくは「エルミタのチャバカノ語」(”Chavacano ermitanyo”)というチャバカノ語の一種であるクレオールがあったらしい。しかしながら、本当にクレオールと呼べる段階だったのか証明できるような資料はちょっと見当たらない。クレオールとしては、その言語を母語として使う人が一定数存在していなければならない。そして内容的にも、おそらくカビテやテルナテのチャバカノ語とほとんど一緒ではないかと思われる。ということで、エルミタ語についてはどの学者が言い出したのか一度調べてみたいと思っています。

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italki(アイトーキ)が言語リストにセブアノ語を追加

ここのところ、引きこもりな上に気持ちがのんびりしているのでブログの更新頻度が急上昇しています。

さて、先日ふと思いついてitalkiの言語リストにセブアノ語とチャバカノ語を追加するようリクエストしてみたところ、このたび見事にセブアノ語が追加されました。これでセブアノ語の先生を探すのがもっと楽になるはずです。

といっても既にプロフィール作ってしまった既存のユーザーがいちいち変更するとも思えないので、これから新たに登録してくるユーザーに期待をします。ということは、実際にセブアノ語でチューターを検索できるようになるのはまだまだ先の話かな。

ちなみにチャバカノ語を追加しない理由については公用語でない上に「たかだか100万しか話者がいない」からだそうです。まぁ世界人口が60億の時代に100万じゃ少ないのかもしれませんが、そこらへんの感覚はちょっとわからん気もします。ひとつ言っておくとチャバカノ語はアジアにある唯一のスペイン語クレオールであるだけなく、世界のスペイン語クレオールの中で一番話者人口が多い言語です

言語人口だけで言えば、italkiの言語リストにある中で言ったらたとえばエスペラントなんて統計すら持っていない上に、多く見積もったとしても100万なわけです。その上で言語能力まで加味すると、圧倒的に少ないに決まっています。

が、そこは言語の政治。政治力の強い先進国の人が多いエスペラントの方が勝つのは見えています。

私にとっても、チャバカノ語が引き続き隠れた言語である方が萌えます。インディーズバンドのファンみたいな気持ち、と言ったらわかっていただけるでしょうか。

サボンかハボンか

チャバカノ語や、タガログ語に入っているスペイン語、ポルトガル語について考えるときには、当時どんな言葉が使われていたのかを考えなくてはならない。
現代スペイン語や現代ポルトガル語とは違う場合があるはず、というか違うに違いない。ましてや中南米のスペイン語・ポルトガル語とはさらに差があるはずだ。

これを勉強していくのはけっこう大変。せっかく勉強しても、中途半端な知識は逆に邪魔になる。たとえば、接続法未来形は、植民地時代には既に会話では使用されていなかったらしい、とか。

しかしながら、これはこれで非常に興味深い。yahoo answerだったと思うのだが、一例を引用。

「*完了形のhe, has, haと未来形のé, ás, áと似ているのはどういう関係があるのですか?
*なぜ不定詞にhaberの活用形がくっつくことで未来形をあらわすのだろうと思った。どうしてこうなったですか?

→haber
は中世スペイン語では「持っている」という意味でした。そこ
で、たとえば、comer heならば「食べることを持っている」
→「食べることになっている」という意味になり、それが「食べるだろう」と
いう意味に変わりました。古いスペイン語(中世)では
comerとeが離れて書かれていることがありました。」

おもしろいですねー。これと、チャバカノ語の未然形に出てくる”ay” との関連は、たしかLipskiが指摘していたと思うけれども、どういうことなのか調べてみたい。

他には語彙の部分で、チャバカノ語には昔のスペイン語の名残じゃないかと思うものがいくつかある。
1) virar
俺の知っているスペイン語では”venir”で表すところに、チャバカノ語では”virar”が出てくる。今のスペイン語ではvirarは曲がるだと思うので、ちょっと意味が変わっているようだ。

2)サボンとハボン
俺の知っているスペイン語では石けんは”jabon”なのに、タガログ語では”sabon”。これも昔はsabonだったよう。

3)tapos(タガログ語)と apos(ポルトガル語)
これは偶然かもしれないが、「後」という意味の単語でtapos(タガログ語)と apos(ポルトガル語)が非常に似ている。もしかしたらスペイン語にも以前はaposがあったのではないか、これも調べてみたい。

そんな感じでスペイン語・ポルトガル語をもっとやれば、いろいろと見えてくる世界があると思う。あと一年、できるところまでこの2言語を勉強していきたい。