スールーの首都ホロの教会で爆破テロ

今朝、ミンダナオ島の南西、マレーシアとの国境に近いスールー州の州都ホロにあるカトリック教会でミサの最中に2つの爆弾がさく裂し、多数が死亡・負傷した。本日夕方までに確認された死者数は20名、負傷者も81名にのぼっている。なお、中には国軍兵士も含まれている。(追記:1月30日時点では、死者21名、負傷者111名)

(参考:英語記事↓)
http://cnnphilippines.com/news/2019/01/27/jolo-town-cathedral-explosion.html
https://newsinfo.inquirer.net/1078076/jolo-sulu-blast-bombing-death-toll-injured-news
https://www.telegraph.co.uk/news/2019/01/27/twin-blasts-church-philippines-kills-19-injures-48/

この事件はおそらくというかまず間違いなく、先日成立したばかりのバンサモロ基本法(BOL=Bansamoro Organic Law)に反対する者の仕業。スールー州はMNLFの拠点であり、MNLFが今回のバンサモロ基本法の成立過程に参加していないだけに反対の立場。今月の住民投票でも、ほとんどの自治体が賛成する中でスールー州(とバシラン州の首都のイサベラ市)だけは反対多数という結果が出た。

今回のテロ事件は、賛成票を投じたとみられるグループに対する反対派からの報復ではないか、という見方もある。先の投票でも、かなりの数の有権者が本当は賛成票を入れたかったけれども脅されてあるいは恐怖にかられて反対票を投じたのではないだろうか。

国レベルではこの程度のテロ事件は想定内ということだと思うが、渦中の住民としてはたまったものではない。2022年にバンサモロ自治政府が発足すればますますMNLFの立場は弱くなっていくのだろうが、これからもまだまだ反対派のテロはなくならないのではないかと思う。そうなると、サンボアンガ市を始めとする比較的治安の保たれている地方中心都市に(イスラム教徒も含めて)島民が流入していく構造はやはりこれからも変わらないだろう。サンボアンガ市はすごい勢いで人口が増えており、しかもイスラム教徒の比率が上がっている。これに伴って言語のバランスも当然変わってくるので、サンボアンガのチャバカノ語を細々と研究し続けている自分としては今後も目が離せない。

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「スペイン語の世界」の中のチャバカノ語

日本語の文献でチャバカノ語への言及を見ることは非常に少なく、特に学者が書くものはほぼないといってよい。長崎県立大学の荻原寛名誉教授は研究対象にチャバカノ語も含めているようだが、ネットで見られる論考はイスパニカに掲載されている「マニラ湾沿岸部のスペイン語系クレオールをめぐって」(1995)ぐらいしかない。

そんな状況の中、今年出版されたスペイン語関係の一般書を読んでいたらチャバカノ語について紹介されているページがあったので引用してみる。

「スペイン語の世界」岡本信照(2018)慶応義塾大学出版会

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91-92p

フィリピンのチャバカーノ(スペイン語xタガログ語/セブアノ語)
 東南アジアにもスペイン語が存在する。その地はフィリピンである。チャバカーノ(Chabacano)とは、スペイン語とフィリピン現地語のいくつかとの接触言語の名称である。チャバカーノ語話者が最も多いのはミンダナオ島のサンボアンガという都市で、約50万人のネイティブ話者がいると推定される。農村部へ行けば、チャバカーノのモノリンガルも存在するという。ただし、最近は衰退の一途にあり、ミンダナオ島にも標準フィリピン語(タガログ語)が普及しつつある。その他、ルソン島マニラ湾沿岸の都市カビテでも話されているが、サンボアンガの変種とは異なる。例えば、語彙構成に関して言えば、カビテ方言はスペイン語起源のものが93%を超えるのに対し、サンボアンガ方言は86%とやや少なくなる。つまり、タガログ語やセブアノ語といった現地語由来の語彙の割合は、サンボアンガ方言の方がやや高い。
 ”chabacano”という語は本来「下品な」を意味するマイナス・イメージを帯びた形容詞である。それゆえ、その由来においてはあまり名誉ある名称とは言えないが、フィリピンにおけるクレオール・スペイン語の言語名として今や市民権を得ている。
 このクレオール語がいつどこで発生したかについては諸説がある。1つは、17世紀に香料諸島のテルナテ島(現インドネシア領)で発生したという説だ。ここは、香辛料の商取引をめぐってスペイン、ポルトガル、オランダが争った場所である。16~17世紀の東アジア海域では通商の共通語としてポルトガル語とマレー語が用いられており、やがてこの2言語が混淆したピジンが産み出され、ポルトガル人のみならず、オランダ人や英国人も用いたという。このポルトガル語基盤のピジンがさらにスペイン語と接触した結果がチャバカーノの萌芽であり、17世紀半ばにテルナテ島に住んでいたスペイン語(=チャバカーノ)話者がマニラに移り住むようになってからフィリピンで広めたというのだ。この説の支持者は、サンボアンガ方言を後の18世紀になってから派生した変種と位置づける。つまり、チャバカーノ諸方言一元論を唱えているわけである。2つ目は、18世紀のミンダナオ島に起源を求める説である。1718年、スペインは一度放棄したことがあるサンボアンガをふたたび占領した。この時期、この土地の先住民は不完全ながらもスペイン語を話すようになり、これがチャバカーノの始まりだという。こちらの説に賛同する専門家は、ミンダナオ島の方言とルソン島の方言はそれぞれ別の過程を経て確立したとする多元論で説明しようとする。

岡本が自分で調査して93%やら86%といった具体的な数字を挙げているとは思えないので、誰かの研究成果の孫引きなのではないかと思う。本書は2018年の作だが、上で言及したイスパニカ掲載の荻原の論考と比べてみて、その起源の探求について特に進んだ点は感じられない。

気になるのは、「最近は衰退の一途にあり」というくだり。一直線に衰退しているような書き方だが、カビテやテルナテの変種はともかく、サンボアンガのチャバカノ語についていえば話者数が数十万おり、当地の小学校の母語言語としてカリキュラムにも入っているところからすると、乱暴な言い方だと思われる。フィリピン語(タガログ語)は普及しており、もはやチャバカノ語モノリンガルの人は若い人にはいないが、サンボアンガでは、今後国から禁止されでもしない限り容易には話者は減っていかないと思う。

(おまけ)
参考までに、アキノ政権下で導入された、現行の「母語を基礎とした多言語教育(MTB-MLE)」の資料(英語)をいくつかリンクしておく。

https://www.philstar.com/headlines/2013/07/13/964902/deped-using-seven-more-dialects-under-k-12

チャバカノ語文法入門2

サンボアンガ・チャバカノ語の文法について、習い始めてからそろそろ6年が経過。日常会話で使い始めてからは2年弱なので、実質は2年ぐらい。
基本的なことは言えるようになってきたので、ちょっとまとめてみます。

1. 語順
チャバカノ語の語順には2通りある。それはちょうど、タガログ語に述語から始まる通常の語順の文と、文中に”ay”が入っているang形から始まる文の2通りあるのになんとなく似ている。ただし、チャバカノ語ではタガログ語の”ay”のような文法語はない。

これは例えば、このyoutube解説(英語)ビデオに出てくる例のような感じ。
通常の語順の例:Ya mira el hombre con Jose. (4分目から始まる箇所)  男はホセを見た / 男はホセと会った 。
主語から始まる語順の例:El libro man sale na 5 linggwahe. (10分目から始まる箇所) その本は5言語で出る(=「世に出る」)。

ちなみに、上の解説ビデオはよくまとまっており、英語版のwikipediaを読むよりもよっぽどわかりやすい。

2.フォーカス
自分で2013年にこのブログに書いた「チャバカノ語とタガログ語の比較」の通り、タガログ語などのフィリピン諸語と違ってチャバカノ語には動詞フォーカスはない。この点が決定的にシンプルだと思う。

3.語彙
語彙はスペイン語の影響が非常に強い。セブアノ語の影響はおそらく既にピークを過ぎており、現在では新しいセブアノ語語彙の流入は止まっていると思う。他のフィリピン諸語と同様、若い世代、あるいは高学歴になるにつれて英語の影響が強い。

語彙の面でおもしろいと思うのは、タガログ語と比べた時に中国語(というか広東語)の影響がかなり弱いというところ。おそらく直接的に広東語から借用された単語はほとんどないのではないかと思う。例えば”tata”(父)、”nana”(母)はタガログ語やセブアノ語と同じなので、直接的にはそこから来たように思われる。少なくとも19世紀末までにはサンボアンガでも中国人は多かったようだが、マニラやセブとは比べようがない、ということだろうか。

さて、現在のチャバカノ語のサンプルで、特に大卒の若い世代が話しているのを参考までにリンクしておく。
本人曰く大学までサンボアンガで過ごしており、ところどころに現われる英語から察するに英語も流暢、かつ見た目にはあまり中華系のようにも見えないタイプ。

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サンボアンガの語源の一説

前回に続いて、まだ「フィリピン漂海民」を読んでいる。

「フィリピン漂海民 月とナマコと珊瑚礁」門田修(1986)

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その中に、サンボアンガの名前の由来についての伝承らしきものがある。興味深いので以下、引用してみる。(125-126p)

 ジョホール(マレー半島)の近海でいまと同じように家船生活をしている一団がいた。ある日集団の長老が杭を海底に突きたてて船をもやった。それにならって他の家船もつぎからつぎへと、船と船を結んでいった。ところが長老が海底だと思って杭をさしたところは、大きなエイの鼻の穴だった。夜の間にエイは目をさまし、たくさんの家船を繋いだまま泳いで遠くの海にいってしまった。朝になり気がついた人たちはびっくりしたが、自分たちがどこまで引っ張られてきたのか、どうすれば帰れるのか、分からなかった。それから数日、海を漂っていると陸を見つけた。そこにとどり着きやっとの思いで船を泊めるための杭を突きたてた。その場所がサンボアンガだった。
 杭をサマル語でサンブーアンと言う。サンボアンガ市は船を泊める杭のことだ。今でも漂海民たちはサンボアンガをサンブーアンとか、サンブーと呼んでいる。サンボアンガに着いたのち彼らはスールー諸島を西に進み、現在の海域に住むようになったという。つまり漂海民はいったんフィリピンに行って、それから西漸したので、クブーのように家船にアウトリッガーがついたとしても不思議はないわけだ。伝説からこんな風に推理してみることができる。しかし、クブーがあったからこんな伝説を考えついたのかもしれない。伝説もクブーもいつごろできたのか、それがはっきりしていないのだ。
 伝説にもいろいろある。エイに連れられてサンボアンガに着いたのち、ある人たちは陸に上がり農耕を始め、残りの人たちが漂海民になったとか、ジョホールのことには触れず、サンボアンガからエイに引っ張られてきたとか。そしてタウスグ族のあいだでは、自分たちと漂海民はもともとは一緒に住んでいたが、いかにして彼らと漂海民とが別々に暮らすようになったかという伝説をもっている。

この記述は、ウィキペディアの「サンボアンガ」に載っている説明とも近いし、英語版ウィキペディアの”Zamboanga City“の記述と全く同じ。今日の時点で、英語版のウィキペディアにはこうある。

The city used to be known as Samboangan in historical records. Samboangan is a Sinama term for “mooring place” (also spelled sambuangan; and in Subanen, sembwangan), from the root word samboang (“mooring pole”). The name was later Hispanicized and named as Zamboanga.

(拙訳:当市は歴史的記録ではサンボアンガン(Samboangan)として知られている。サンボアンガンは、シナマ語(サマ・バジャウの言語)で「杭を打つ場所」といい、語根はサンボアン(杭)である。この名は後にスペイン語化してサンボアンガ(Zamboanga)と名付けられた。

ちなみに日本語版はこう。

伝承では、初期のオーストロネシア語族の移住者は、山に住むスバノン族、川岸にいた民族、「花の豊かな地」という意味のジャンバンガン Jambangan という平野に住んでいたルタオ族だった。その後、彼らの子孫で低地に住んだ人々、ボートに乗ってきた人々や海を漂泊する人々、バジャウ族やサマール族がこの地を「サンボアンガン Samboangan」と呼んだ。サンボアンガンはジャンバンガンから来たものという説もある。スペイン人が作図した初期の地図では、すでにサンボアンガンの地名が現れ、「船が着くところ」を意味すると言う説明がなされている。またサンボアンガンは、サマール族やバジャウ族が浅瀬で船を進ませるときに使う木の棒「サブアン sabuan」から来たという説もある。初期のスペイン人植民者はここを「エル・プエブロ・デ・ルタオ El Pueblo de Lutao」、ルタオ族の地と呼んだ。

これらの情報から見るに、どうやら門田が聞いた話は正しいのではないかと思う。もともとサンボアンガにはルタオ族が住んでいたのかもしれないが、スペイン人が使うようになった名前はサマ・バジャウの言語から来た、というのはあり得るのではないだろうか。そして「ルタオ族」の情報はどうも少なく、ようは人口がかなり少なかったのでは、と思う。

というのも、1635年にDon Juan de Chaves率いるスペインがサンボアンガにピラール要塞を作った際、300人のスペイン人と1000人のビサヤ人を連れて行ったとされるが、当時の1300人というのは現地人口と匹敵するぐらいの規模だったのでは、とも思える。であれば、数百年の間にルタオ族は言語的にはすっかりスペイン語なりチャバカノ語なりに席を明け渡したのだとしても、それほど不自然ではないのではないだろうか。

もっとも、もしいつかサンボアンガの山奥か田舎の方でルタオ族だという人たちに会えるのなら、けっこうな大発見ということになるのかもしれない。そんな人たちがいたとして、さらに現在まで独自の言語や伝承をもっていれば、の話だが。

テルナテ島で話されていた言語はテルナテ語だったという当たり前の話

チャバカノ語のルーツをたどる研究メモ。

日本人でチャバカノ語を研究している人が歴史的にほぼ皆無な中で、鶴見良行は昭和の時期にサンボアンガやコタバト等を旅していて興味深い記述を残している。彼は著作がたくさんあるので、少しずつ読んでいくことにする。今回読んだのは、この本。

「辺境学ノート」鶴見良行(1986)めこん

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P193-194に、ハルマヘラ(Halmahera)マルク州北部の島。テルナテ島は、この属島。
ウォーレスを含めて、当時の書物は、ハルマヘラをGiloloと記しているが、これはトベロ族の村名で、ジャイロロと発音する。かねてよりの疑問氷解。トベロ語は、マラヨ=インドネシア語系とはまったく異なるという。

との記述あり。「テルナテ」はカビテ州にある町の名前でもあるのだが、もともとはこのインドネシアのテルナテ島の王族がポルトガル人によって追い出され、カビテに住み着いたのが由来とされている。テルナテには「テルナテーニョ」というチャバカノ語が残っており(ただし絶滅しかかっているが)、サンボアンガのチャバカノ語と意思疎通できるぐらい類似しているため、元は共通の言語だったと推定されており、マニラやカビテからサンボアンガに伝わったのだろうと考えられている。

俺のかねてよりの疑問は、追い出されたテルナテの王族の母語は何だったのだろう、ということだったのだが、テルナテ島がハルマヘラ島の属島という情報を上記著作から得たことで自分で言語状況を検索してみる気になった。

英語版ウィキペディアを見ると、たしかにテルナテ語(テルナタ語)というのがあって、ティドーレ(tidore)語、トベロ語等と同様にマラヨ語系とは系統が違う西パプア系とある。ということは、やはりテルナテ語はタガログ語とは全然似ていないことになる。

もう少し調べてみるに、オランダの学者Van Der Veenは北ハルマヘラ諸語(North Halmaheran)について、非オーストロネシア(=NAN)諸語の中でも、異民族との接触のためかテルナテに近づく程SOVからSVOに変る傾向が顕著と述べている。語順が変わっていくという話は、それはそれで面白い(たとえばフィリピン諸語と現代マレー語は同じアウストロネシア語族なのに語順が違う)。

最後に、テルナテ島のビデオがyoutubeで観られるのを見つけたのでそれを紹介して終わりにしたい。テルナテ島は大航海時代には地理的にとても重要だった場所なので、観光資源はやはり遺跡。下は、テルナテ王宮を紹介したビデオ↓

また、テルナテ島には北マルク・ムハマディア大学という大学があるそうで、そこには日本語学習者もいるんだとか。用事はないが、親近感がわいたので、いつか行ってみたい。
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201210/article_4.html

アブサヤフがバシラン州の村を襲撃

去る8月21日になるが、アブサヤフの一団がスールー諸島の手前にあるバシラン州(サンボアンガの向かいにある島)の村で行われる祭りを狙って襲撃を行い、村人9人が死亡、10人が負傷した。下のリンク先の英語記事にはビデオもついている。

(英語記事)
http://www.rappler.com/nation/179451-basilan-abu-sayyaf-attack-civilians-dead

同記事によれば、この襲撃はアブサヤフの他の戦線から軍の注意をそらすための作戦とみられる、とのこと。

そんな理由で襲撃を受ける方はたまったものではない。近年、バシランやスールー諸島からサンボアンガをはじめとする他州への移民が進んでいるのは、このような治安の悪化が背景にあるのは間違いない。ちなみにサンボアンガはものすごい勢いで人口が増えており、既に人口は100万人を超えているとみられる(この人口は、ミンダナオではダバオに次いで二位)。それだけでなく、サンボアンガ市民のムスリム比率が急激に増えているのも注目される。

このことが市内で使われる言語にも影響が大きな影響を与えているのは言うまでもなく、おそらく特にタウスグ語話者が増えているのだろうが、バシランやスールー諸島の人々は他にもヤカンやバジャウなどいろいろな民族がある。多言語ウォッチャーの私としては、サンボアンガ市内(特にダウンタウン)の小学校などがどうなっているのかも非常に気になる。

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16,17世紀サンボアンガの歴史

サンボアンガの歴史。英語で、Tony Cabrestanteの著名で長文の解説がある。
http://www.zamboanga.com/html/history_zamboanga.htm

まず、原住民は陸続きでやってきたネグリートとする。フィリピン諸島で共通。今の地形を見る限り、当時はパラワンとスール―諸島がそれぞれボルネオとくっついていたのだろう。

次にサンボアンガへ渡ってきたのはスバノン族。その後、バジャウ、サマル(この名前はフィリピンでよくある民族名だが、それぞれ別々と考えるべきだろう)、ヤカン、タウスグ。このうち、最後のタウスグが一番強かったようだが、スペイン人が来た時点ではスバノン族もかなりいたようだ。

ちなみにサンボアンガという名前はサマルやバジャウが使っていた”sabuan”という、ビンタ(ボート)を陸付けするための柱がたくさんあるところ、という意味の”samboangan”に由来するという。その前はスバノンは「花のあるところ」という意味の”Jambangan”で呼んでいたという。

さて、1595年にはじめてスペイン人がサンボアンガに基地を作ったとき、今のフォート・ピラールのあるところではなく、カルデラ湾(Caldera bay)の”Barrio Recodo”という場所が拠点だった。今はイワシの缶詰工場がたくさんあるところ(地図+航空写真を参照)で、アヤラの手前だ。この地区は漁民ばかりで、見た感じ貧しいムスリムがたくさんいるところで近づきがたい。

当時作られた基地は維持する資金がマニラになかったのですぐに放棄され、その後40年近くサンボアンガからスペイン人はいなくなってしまった。戻ってきたのは1634年、今度は今の旧市街のところを制圧し、翌年にはフォート・ピラールの原型となる砦を作った(その後、また放棄して何十年も経って戻ってきた後に再建したのがフォート・ピラール)。

そんなわけで、フォート・ピラールができる前にはチャバカノ語が使われるための要素は確認できない。

当時の記述は、日本語訳されているモルガの古文書「大航海時代叢書〈第I期 7〉フィリピン諸島誌」にもたくさん載っている。古書にしては珍しく、送料込みで1000円以下で手に入るのでオススメです。

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最後に、サンボアンガの歴史については、以下のブログでも文献紹介がある。非常に興味深い。
https://spotswings.wordpress.com/notes-on-zamboanga-from-the-founding-of-la-caldera-in-1595-to-the-cholera-of-1916/
https://spotswings.wordpress.com/2014/01/27/zamboangabiblio/

サンボアンガの言語グループ

実際に滞在してきて見えてきたこと。

ミンダナオ情勢というのは研究されてきていないわけではないが、特に日本語文献はあんまり深くない感じがする。ひとつにはもちろん治安の問題があるが、もうひとつには日本としてあまり興味がないのではと思う。これまで遺骨収集団は何度か来ているが、いわゆる「奥地」に入っていったのだろうか、よくわからない。治安を考慮して入っていないのではと思う。

さて、ミンダナオにはたくさんの部族がいて、現在は大きく分けるとクリスチャン、ムスリム、ルマド、そして中国人等。部族の分け方に宗教が出てくるのがあまりよろしくないと思うが、ざっくりとした把握には便利なのでこれに従う。というのも、血統という意味ではそもそもアラブ、中国人、スペイン人やらなんやらが混じっているのがフィリピン人なので。

クリスチャン → 多数派。もとをたどればビサヤ等からの移民が多い。他にはクリスチャンに改宗した先住部族、スペイン人、日本人等の混血等。
ムスリム → ムスリム式の政治機構を備えていた先住民族。タウスグ、マラナオ、マギンダナオなど10部族ぐらい。
ルマド → 先住民族でムスリムでなかったもの。バゴボなど、ダバオ周辺に10部族ぐらい。
中国人等 → 中国人は100年ぐらい前からの福建を中心とした移民。

海上漂流民バジャオ(サマ人)はおそらくルマドに分類されるのではと思う。ようは、その他。

さて、サンボアンガは17世紀にスペイン人によって要塞が建設される前からスペイン人が何度も来ていたが、いわゆるクレオールであるチャバカノ語が主要言語となったのは何時のころだが定かではない。ただ、少なくとも19世紀後半には主要言語になっていたらしい。

その後、セブアノ語勢力が流入し、チャバカノ語もセブアノ語からの影響が強まっていくが、近年の国語政策によって、現在ではセブアノ語の進出は止み、今度はタガログ語の影響が強まっていき、ゆっくりとフィリピノ語の方言化の道をたどり始めているように見える。

現在この町でむしろ目立つのはスールー諸島やバシランから来るムスリム移民(経済難民?)。観察していると、現在のサンボアンガは大きく3つの言語グループに分けられるようだ。

1)チャバカノ語 → 一、二世代以上前からサンボアンガに住んでいるクリスチャン、バジャオ等。
2)セブアノ語 → サンボアンガに比較的最近移民してきたクリスチャン
3)タウスグ語 → バシランとかからつい最近移民してきたムスリム

そして、それぞれの共通語はフィリピノ語というかタガログ語。若い人は、小学校しか出てなくて英語があまりできなくても、みんなタガログ語は普通に話せる。フィリピンの国語政策は大成功しているのを改めて感じる。

続・チャバカノ語研究 ~旧日本軍票~

昨日の続き。ダバオのチャバカノ語について、

Zamboangueño Creole Spanish by John M. Lipski and Salvatore Santoro
Comparative Creole Syntax ppp-pp (2000)

の導入部で、

“Whinnom (1956), who was unable to visit Davao, claimed Davaeño as a separate Chabacano dialect, but contemporary Chabacano speakers in Davao all speak the Zamboanga dialect and consider themselves—often with little factual information at their disposal—as part of the Zamboangueño diaspora.”

少なくとも現代では”castellano akabay”と呼ばれるようなものはない、といっている。ない証明というのは容易にできないとは思うが、まぁどこを探してもないのなら、ないという他ないですね。

しばらくダバオで終戦を迎えた人についての日本語文献を読んでいて、当時の人たちは「チャバカノ語」というのを単に「ブロークンなスペイン語」、もっと詳しく言えば共通言語としてのピジンという意味で使っていたということがよくわかった。その上で上の論文の導入部を読むと、サンボアンガのチャバカノ語がブロークンなスペイン語というイメージに「覆われていた」という意味がよくわかってくる。区別されずにいて、独自の文法と母語話者を持つれっきとしたクレオール言語だということは、20世紀に入って「発見」されなければならなかったわけだ。その歴史自体、興味深い。

さて、次に進もう。

Forman(2001)
Confidence in Chabacano: Counterbalance to a western ideology of language

は、私がしばらく前から疑問に思っていたチャバカノ語の文法上の特性、すなわち他のメジャーなフィリピン諸語と違って受身もしくは目的語フォーカスのシステムがないことについて触れている。システムなしに、単に動作主としての主語を省略することで受身のニュアンスが発生するというのは、不思議。しかし、実際にそうなのだから仕方ない。

日本人に関係している箇所としては、孫引きになるが、Caminsが1999に発行してサンボアンガ市役所で配られていたらしいチャバカノ語入門+辞書には、”jacka”という旧日本軍の軍票を指す単語が載っているらしい。Formanはそれについて、”j”の発音が実際どうだったのか不明だ、といっている。発音はともかく、普通に考えると”J”は日本の”J”だろう。なんとなく、隠語っぽい。

一応、軍票について見てみると、”Japanese”と英語で書いてある。ちなみに、フィリピンで使用されたのは「ほ号」軍票。
http://chigasakiws.web.fc2.com/gunpyou-2.html
http://yakumo1100.blog.fc2.com/blog-entry-391.html

今日はここまでにしておこう。また気が向いたら研究を再開したい。

続・チャバカノ語研究 ~戦前日本人の証言~

注)この記事はほとんど論文です。長いです。

戦前・戦中とフィリピンのダバオにはたくさん日本人がいた。たとえば2万人とか。しかし、当時の町全体の人口がわからないことにはこの数字はまだ迫力が欠ける。なんせ、この時代には日本人はアジア・オセアニアに出まくっていたのだから。

ネットで入手できる論文としては、たとえば、

大野俊 「ダバオ国」の沖縄人社会再考 – 本土日本人,フィリピン人との関係を中心に –

この論文では、1937年に、ダバオ市の全人口が45,579人とある(日本人=11,487人、クリスチャン・フィリピノ(ビサヤ人、イノカノ人等)=26,731人、非クリスチャン・フィリピノ(先住民系)=6,209人、その他の外国人は中国人を中心に1,152人)。

なるほど、たしかに多い。20%というのは、今の新宿区の中国人が2倍になったようなもの。「ダバオ国(グオ)」と呼ばれるのもわかる。ところで、現在ダバオにフィリピン最大の中華街があることを考えると、「中国人を中心に1152人」しかいないというのは気になる。これはまたの機会にもっと調べたい。

さておき、この論文には7ページ目と9ページ目にチャバカノ語が登場する。まず、

こうした外見,言葉,生活習慣などの違いを認識 した地元フィリピン人は,沖縄移民を日本本土移民 とは区別 し,地元のチャバカノ語で 「オ トロ ・ハボン(OtroHapon)」,すなわち 「別の 日本人」 と呼んだ。 この言葉は,沖縄移民二世の子供たちに対 しても純血,混血を問わずに使われた

9ページ目は、

当時,ダパオで共通語に近かった言語は,スペイ ン語 と土着の言語が混成したチャバカノ語だった。その言葉 の中のい くつかは,沖縄移民の間でよ く使われるよ うになった。 「コンパ(compa)」 (共同,共同事業),「パタイ (patay)」 (死ぬ),「タンキ (tangke)」 (水タンク),「ギリン ・ギ リン (gilinggiling」 (頭がおか しい) などである。一方で, 麻の引き屑の中でよく育った 「ナ-バ」 (キノコナ/†) という沖縄方言が現地人の間に広がって使われていた という(金武町史編さん委員会 1996a:301)。 こうした言葉の 「相互乗り入れ」は,沖縄人が労働現場などで本土 日本人以上に深 く地元フィリピン人 と交流 していた証と考えられる。

これが今回のテーマ。このような日本人が残した記録や証言の検討は、チャバカノ語研究ではおそらく前人未到の領域だろう。

上の論文では「チャバカノ語」が共通語に近かったと書いてあるが、さてここでの「チャバカノ語」は実際にはなんだったのだろうか。私の考えを先にいうと、単なるピジンだったのだと思う。ようは、文法を適当に省略したスペイン語の上に、適当に現地系(タガログ語とかビサヤ語とか)の単語を載せたようなものだったのだと思う。そういう意味で、現在また当時サンボアンガ等で話されている(た)のとは別の系統。

まず7ページ目からスタート。”otro hapon”はたしかにチャバカノ語だろう。スペイン語では「別の日本」になってしまって「日本人」という意味にはならない。しかし「hapon」はタガログ語では「日本人」の意味でも使われる一方、”otro”は少なくとも現在は使われない。一方、ビサヤ語では”otro”は「繰り返す」の意味なので、消去法でチャバカノ語としよう。

次、9ページ目。”compa”や”giling-giling”は聞いたことのない単語だが、”patay”や”tangke”は今のタガログ語やビサヤ語にもある。
おそらく”compa”は”compartido”かなんかのスペイン語から来た単語、そして”giling”はタガログ語で「挽く」だから、「ぐるぐる回す動作が『くるくるぱー』に似ている」とかかもしれない。どれも、チャバカノ語プロパーの単語、というには弱そう。

「チャバカノ語」という名称を当時の日本人が何に対して使っていたのか、というのはちょっと興味深いトピックである。他の文字化された証言もネットで探してみよう。

まず、NHK。当時ダバオに住んでいた田口タダシさんは、お父さんがチャバカノ語を話せた、という。その部分を抜粋すると、
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110570_00000

父と母は母語が違っていたので、チャバカノ語(ミンダナオ島南西部のスペイン語に近い言葉)、セブアノ語(セブ語、ビサヤ語とも)、イスラム教徒の部族の言語などを交えて話していました。

もちろん田口タダシさんはカッコの中の言葉は喋っていない。「(ミンダナオ島南西部のスペイン語に近い言葉)」というのはNHKの人がサンボアンガのチャバカノ語と混同して後で勝手につけたと思われる。そもそも、ダバオは「ミンダナオ島南西部」ではなく、日本人であるお父さんは戦前にダバオで働いていた、ということなので南西部の言葉を身に着けていた可能性は低いのではないか。

証言によれば、お母さんも話せたというが、この人はダバオ生まれではないか。ここでのチャバカノ語は、ダバオで知り合った二人が共通語として話せた言語だとすれば、やはりピジンの方が納得がいく。言いたいのは、彼らが身につけていたのはクレオール言語の方ではない、ということ。

次に進もう。沖縄の読谷の村史にもダバオで終戦を迎えた人の証言がある。以下、チャバカノ語らしいものが出てくるところを抜粋。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm

十二月二十五日、私達の収容されていたフィリピン・ハイスクールが面する道路上に遂に戦車が来た。戦車の傍らには若い中国人の通訳がいて、現地人に向かって「アーモーベニ、アーモーベニ(先生のように偉い人が来たという意味、つまり偉い日本軍が来たという意)」と叫んだ。

「アーモーベニ」が”amo vene”だとすると、 チャバカノ語らしい。珍しく2語文である。スペイン語だと”viene”となるところ、サンボアンガのチャバカノ語と同じく”v(b)ene”である。ここでも、中国人の通訳はやはりクレオール言語ではなく、ピジンを話していたのではないか。ただし、本人は自分の話していたのを以下のようにスペイン語と言っている。

私はスペイン語には不自由しなかったので

先の方にも、渡航前にスペイン語の訓練を受けたとか書いてあった。少なくとも、戦前のダバオの共通語はスペイン語だったということはわかる。「チャバカノ語」は、海外の文献を見ても、変なスペイン語という語源だとされているし、うまく話せない人が卑下するときにも使っていたのではないだろうか。

では、最後に「フィリピン残留日本人2世・集団帰国者一覧」から。

まず新ビエンベニドトシオさん。
父は、1939年頃にダバオデルスル州マララグ町に来て、炭焼きの商売をしていた。父は現地語であるチャバカノ語を話すことができた。

次はサトウ・ラモン&ヘンリーさん。ただし、おそらくマギンダナオ州。
父は現地語であるチャバカノ語や母の部族であるティドュライ族の言葉を話すことができた。

現地語がミンダナオ中どこでもチャバカノ語だった、というよりは、当時までスペイン語が共通語だった、ということだろう。でも、スペイン語がペラペラの人は少なく、みんなピジンで話していた。

ここで新たな疑問が出てくるのだが、ではミンダナオ以外のフィリピンでは戦前の共通語はどうだったのだろうか。どこでもチャバカノ語と呼ばれていたのだろうか。気になる。

ひとつのヒントは、英語版のwikipedia。それによれば、ダバオとコタバトにはそれぞれチャバカノ語の方言と認められるものがある、とされていて、ダバオの変種は別名”castellano abakay”、そして中国語と日本語のどちらの影響が強いかによって2つに分けられるという。

The other dialects of Chavacano which have, primarily, Cebuano as their substrate language are the Mindanao-based creoles of which are Castellano Abakay or Chavacano de Davao (spoken in some areas of Davao), this dialect has an influence from Chinese and Japanese, also divided into two sub-dialects namely Castellano Abakay Chino and Castellano Abakay Japón,

ダバオのチャバカノ語は、”castellano abakay”という別名がついているが、私の推量では”abakay”は主要産業であったアバカ。下のウェブサイトによれば2000年センサスでは59,058人の話者がいたという。ただ、具体的なコミュニティの名前など出てこない。
http://www.nativeplanet.org/indigenous/ethnicdiversity/asia/philippines/indigenous_data_philippines_davao_chabakano.shtml

しかし、Chabacano (Philippine Creole Spanish)
Oceanic Linguistics Special Publications
No. 14, A Bibliography of Pidgin and Creole Languages (1975), pp. 210-216
http://www.jstor.org/stable/20006595?seq=1#page_scan_tab_contents

を読むと、上記の主張はWhinnom(1956)にもとづいているのではと思えてくる。以下、上の文献から反論を抜粋。

Although Whinnom(1956) mentions another offshoot called ‘Akabay Spanish’ spoken at Davao from about 1900 on, his information is of doubtful authenticity. Whinnom also notes that for some years a ‘Bamboo Spanish’ pidgin was spoken at Davao between Japanese settlers and Filipinos. The term Davaueño or Dawaueño was applied by the census takers to a mixture of Tagalog and Cebuano with a little Spanish.

研究は続く。

(おまけ1)
Navi manilaの記者がダバオで、チャバカノ語が話せる人を探してみた、という。ようやく見つけたと思った人が話したのは、正統スペイン語だったという。結局、英語に対する「タグリッシュ」のように、自分のスペイン語を卑下している言っているだけだったのだろう。

マニラ新聞デスク日記
http://navimanila.com/travel/scenerymindanao.html