チョムスキー、ある意味で政治にコミットする学者

チョムスキーの生成文法はそのうちじっくり勉強してみたいといつも思っている。

が、今日読んだのは彼の別の側面、アメリカ政治における極左の筆頭として。

「メディア・コントロール」ノーム・チョムスキー (2003)

メディア・コントロール ―正義なき民主主義と国際社会 (集英社新書)
ノーム・チョムスキー
集英社
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ちょっと古い本なんだけど、チョムスキーの本ははじめて読んだわけなので得るところはたくさんあった。特に、反米政権である南米の小国エクアドルにいて読むこの本は、日本で読むときとは雰囲気がちょっと違う気がする。

チョムスキーの主張はラディカルなので、まともに受け止めるにはかなりの準備が必要。おそらくそれもあって、彼は極左のポジションとしてしか扱われないのだろう。

先進国における左翼というのは、ようするに自己批判する人たち、ということ。自分の国に悪いところがある、という主張を自ら行う。こういう人がいる国は健全だと思うが、ようは割合が問題。一人だけリーダーがいたって、中間層が思想についていけないならば国策には反映されないだろう。おそらく、それがアメリカ。

では日本はというと、そもそもそういうリーダーがいない。中間層は、まだまだ極端ではないけれどどちらかというと右寄り。どっちかと言えばアメリカ型だと思う。

チョムスキーが本書で書いているように、アメリカは諸外国にたいがいヒドイことをやってきているけれども、日本にそれを
批判する資格はない。なぜなら日本は自分で手を下さないかわりに、実態を知りながら側面で援助しているからだ。もっともだと思う。しかし、そういうことをするのは偽善だからいかん、という声が日本から上がっただろうか。俺が覚えている限り、日本では平和憲法違反かどうか、ということばかり言っている気がする。そんな憲法があろうがなかろうが倫理的にいかんだろ、という声を聞いた記憶がない。

今の日本の繁栄はアジアにおける諸戦争の特需で伸びたおかげだとか、アメリカの庇護下にあったからとか、そういう側面を認めた場合に、じゃあその繁栄の中で「いや自分は汚くない」と言ったってどれだけの説得力があるだろうか。歴史的にもそうだし、現在進行形でもそうだ。

僕らは右寄りではないかもしれないが、かと言って反対もしてないじゃないか、と思う。汚いところは政治家とかにやらせて、自分は汚くない、と言っている。実際、そういう偽善を日本の左翼にも感じる。いや、アメリカの左翼もそうかもしれない。結局のところ、全体を構成する一部じゃないか。

そうやって見ればチョムスキーもその一員なのだが、それはそれとして彼が訴えることの正当性が消えるわけではない。
僕ら一人ひとりの生き方を問うている、と思う。

しばらく、以前にもまして政治的なことから大きな距離を置いてきているだけに、久々に政治について考える機会となった。

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