売る身体・買う身体

大学院で、女性学というかジェンダーの社会学をちょっとかじったり、それからフィリピンのNGOで女性のエンパワメントに関わる活動に参加したり、元エンターテイナーへのライフヒストリー的なインタビューをしてきたが、心の中でまだなんとなくはっきりと整理がついていないことがある。

日本の中で元エンターテイナーの外国人女性が生きていく中で直面する差別的な扱いというのは、女性であり、途上国出身外国人であるということに加えて、いわゆる「フーゾク」に関わってきたというレッテルによる。単純に言って3重苦的です。それに途上国での階層も考慮するなら、4重苦ともいえるかもしれない。

上でふれた「フーゾク」に関わってきたという差別には、当時の就労実態は関係なく、たとえば見た目から判断される「どうやらそうらしい」といった根拠だけで判断されている。というのも、風俗産業に出入りしない人からすれば、細かい差異はどうでもいい。例をあげると、実際にはフィリピンパプは、売春が営業行為でない場合も多数あった(ある)にもかかわらず、テレビドラマの影響等も手伝って、なんとなく、フィリピンパプ=売春という図式で考えられるようになってしまった面もある。

ところで、実は当事者の女性たちの間にもある区別というか差別だが、単にホステス業をするのと、売春を営業とすることとの間には、感覚的に一線があるように思われる。それってなんなんだろうか、と考えたことはないでしょうか。

今回読んだ本、『売る身体・買う身体―セックスワーク論の射程』 (1997) 田崎英明 は、そういった話をまとめたセックスワーク論に関する論考でした。

売る身体・買う身体―セックスワーク論の射程 (クリティーク叢書)
田崎 英明
青弓社
売り上げランキング: 529288

本書の定義による「セックスワーク」は、いわゆる性風俗産業における労働全般であり、ホステスも売春も同じ系統として扱うのみならず、「スチュワーデス」や「看護婦」のサービスとか、一昔前のOLのお茶くみも含み、もっといえば、主婦だって自分の身体を売って食べていっているのだから、という。

こんなことを聞けば、フィリピンパブの女性が売春婦と間違われて憤慨するように、当事者であるスチュワーデスや主婦は怒り出すだろうが、しかし、一理どころか、きわめて説得力のある主張だということが本書を読めば理解できる。

セックスワークとか何か、何が問題か。

本書ではまず、強制労働としての売春は奴隷状態なので、労働ではないと説く。平成に入ったあたりから日本で問題とされてきた外国人のフーゾクの一部分は、まさしくこれに違いない。それに、売春でなくとも、来日時点で架空の借金を負わせる明治あたりからの女衒のやり方も奴隷労働の一形態だ。

次に、売春だと薄々予感して日本にきたけど、こんなにヒドイとは思わなかったとか、そういうボーダーラインなケースがある。これは当人の主観によるところがあり、開き直って職業売春婦として生きていく人もたしかにいるだろう。それから本国でも売春をやっていて、どうせやるならもっと稼ぎたいと思って来日してくる人もある。海外売春の問題も、そういう類型があることを理解しないとなかなか把握しづらい。

売春はいかん、と日本では少なくとも建前的には考えられていると思われるが、否定派の中には、絶対的にいかん、という意見もあれば、妻帯者がやるのはいかん(奥さんが買春したらどう思うか、という問題提起の裏返しとして)、とか、いやこれは先進国の人が途上国の女性を買うから問題なのだ、とか、あとは行為内容による、という人もいるだろう。

そういう話はそれだけで延々と続きそうだが、それはそれとして俺が注目したいのは、売春する人にスティグマをはって差別するという世の中はいかんでしょ、という問題提起。一夫一婦制的な、キリスト教的な世界観の影響だかなんか知らんが、現に世界に相当数いる、自分の意思または強制的に売春に従事することになっている人、または過去にそうだった人を、差別し続ける構造をなんとかしないといけないんだと強く思う。

そういった女性とその問題を扱った本なんかでも、素朴に差別的なものがいっぱいある。たとえば、この前読んだ山崎朋子の「サンダカン八番娼館」を読んで感じた違和感もそういうものだったし、フィリピン女性関係では、白野慎也の『フィリピーナはどこへ行った』もそうだった。女性学の中でもかなり問題になっていたようだが、いちおうの整理はついているのだろうか。

マイケル・サンデル的な問題提起としては、障がい者が利用するセックスボランティアについての是非の問題もある。というか、ボランティアじゃなくて職業売春婦を税金によって賄うべきだ、という意見とか、真剣に考えてよいように思う。

それは、セックスワークに対する考え方を根本的に改めることを迫ることになるかもしれない。現に、社会的な位置づけは明治以降、急激に変わっていったようで、近代日本では「ザ・メモリー・オブ・ゲイシャ」みたいに社会的地位の高い名士が芸者と本気で恋に落ちる、なんてこともわりとあったようだ。そんな世の中もありうる、ということで、これからも折にふれてこのテーマは考えてみたい。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中