英語が実現したエスペラント的世界

実は、今回、超短期間だがロサンゼルスを旅行してみて、これは初期のエスペラントが夢見た世界そのものではないか、と思った。

さまざまな人種が暮らす世界で、それぞれの民族はそれなりに自らの言葉を保持しつつ、さらに共通語として別の言葉を話す。舞台設定としては、俺が見たロサンゼルスはこれ以上ないぐらいにエスペラント的なのである。

エスペラントが反対しているのはその英語=アメリカだが、実際に現れた例を観察することによって、エスペラントが目指す世界の修正が必要だと思う。

俺がロサンゼルスの例から導き出した結論は、エスペラントのコミュニティは常に離散していなければいけない、ということだ。でなければ、エスペラントだけで生活できる環境が生まれ、継承語を保持するインセンティブがなくなってしまう。そうなればアメリカで暮らすのと同じで、その地はエスペラントのネイティブ話者だらけになってしまう。

それの何が問題なのか?

エスペラントは、ネイティブ話者ではなくて第二言語として使用するために作られた言葉である。言葉(第一言語)が違う者同士のコミュニケーションのために考案されたのだから、それが同じ者同士になってしまっては本末転倒。それこそ英語と変わらなくなってしまう。

エスペラント話者は(それぞれの地域コミュニティに属した状態という意味での)離散した上で、もうひとつのアイデンティティとして、エスペラント主義を共有する人の集まりでなければならない。結局のところ、エスペラントの存在意義は言語そのものではなくて、それを使用する人と方法にかかっているのである。

この考え方に基づくと、かつてエスペラントを公用語にしようと企てたエスペラント話者がいたが、それは完全に誤りということになる。今後も、国家がエスペラントを所有するに近い事態はあってはならない。

国家の集合や代表、すなわちEUや国連であっても同様だ。エスペラント主義を共有しない人が、必修だからとか就職に有利だからとかの理由で選ぶようであっては、エスペラントは根本的に無価値になってしまう。エスペラントが、英語から学ぶべき点は限りなく多いと俺は思う。

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