ガチでチャバカノ語

ぜったい他の人には理解できないと思いますが、今の夢というか、目標。

チャバカノ語をマスターすること。

自分でも不思議なんだけど、なぜか、去年からこのアイディアが頭から離れません。

タガログ語に出会っためぐり合わせの延長線上にあるのは間違いないのですが、タガログ語だけでなくセブアノ語も好きだし、どうもフィリピン諸語と波長が合うんですよね。前世かな。

ちなみに、タガログ語にしても発音(というかノリ)はネイティブみたいにはなれないと諦めてるんですけど、それでもなお熱意が冷めないというのは、やっぱり本気で好きなんでしょうね。

信じてもらえないかもしれませんが、エクアドルでスペイン語を習得することにした理由も、後々フィリピンに戻ってチャバカノ語をマスターするときの下地づくり、なんです。

と、いきなり書いても、なんで南米とフィリピンの言葉が関係あるの?と思われるでしょうから参考までに、下でチャバカノ語の概要をどうぞ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%90%E3%82%AB%E3%83%8E%E8%AA%9E

スペイン語の語彙が多いといわれるフィリピン諸語の中でも、抜群にスペイン語に近いのがチャバカノ語なわけです。しかしながら、文法の骨組みはしっかりタガログ語&セブアノ語に(そしてきっとイロンゴ・ヒリガイノン語にも)共通のものを使っている。

さらに意味論の部分ではフィリピン諸語よりなので、スペイン語だけわかる人には到底使いこなせません。かたや、その語彙から、他のフィリピン諸語とは系統が相当違って、かつ英語とも違うので、別の地方のフィリピン人にも学習しづらいという、非常に奥が深い言語です。

さて、では実態なのですが、外国人向けの文法書は出版されていないとされているのに、なぜか英語版のウィキペディアに詳しく解説が載っていました。これ、相当貴重です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Chavacano_language

これを読めば、タガログ語がある程度わかる人だと文法は納得がいきます。さらに、スペイン語がある程度わかる人だと、語彙が理解できます。両方できれば、読めます。で、俺、嬉しいことに例文を読んでしっかり理解できました。メキシコでスペイン語修業した甲斐があったなあ、とひそかに感動です。

これからエクアドルに行ってもっとできるようになって、フィリピンに戻る日が楽しみです。

サンダカン八番娼館

「サンダカン八番娼館」 (2008)山崎朋子、文春文庫

サンダカン八番娼館 (文春文庫)
山崎 朋子
文藝春秋
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本書は、大宅壮一ノンフィクション賞をとった1972年の「サンダカン八番娼館」の文庫版なのだが、1974年の続編「サンダカンの墓」も後半に収められていて、続けて読むのにちょうどいい。2004年に映画化されたからか、2008年にこのセットの文庫版がリニューアル出版されたわけだが、内容的にはかなり70年代。同じ日本とは思えないような描写がそこかしこにあり、さらに70年代らしい文体とも相まって、独特の味を出している。

本書はようするに、かつての「からゆきさん」に戦後になってから聞き取りをした記録なのだが、ノンフィクションってこんなに自由でいいのか、というぐらい前面に筆者が出てきている。超主観的で、かつ聞き取りすら再構成しまくっているのだけれど、情報が貴重なだけに耳を傾けずにはいられない。

俺の世代にとっては、今やすっかり有名になった「従軍慰安婦」とは違い、日本人の「からゆきさん」のことは全然情報がない。出稼ぎ、ということで言えば、JICA移住資料館のようなところにはアメリカに出稼ぎに行った人の情報はそれなりにあるのだが、アジアはというと、いったいどこに集めてあるんだろうか、となり、ましてや当時の売春婦の情報となると、これはもはや国営の資料館のようなところにも右翼系のところにも期待できない。なんせ消したい過去なのだから。そしてもちろん送り出し元の郷土資料館にも記録はほぼないだろう。

そんなわけで、本書の情報は信ぴょう性の担保が弱いとはいえ、上にも書いたように貴重だと思う。この種の聞き書きというのは、情報を持っている人が続々と世を去っているので(というか、現在ではもはや皆無だろう)、検証しようがない。だから、内容に創作があってもわからないという問題を抱えざるを得ないわけで、一般書として出す以外には難しいんだろうな、と思う。

しかしながら、内容的にはさもありなん、というような雰囲気がかなりする。聞き書きに登場する「からゆきさん」たちは、今の言葉で言うならば人身売買のサバイバー。貧しい時代の日本では国内外で似たような人生がいっぱいあったんだろうな、と想像してしまう。

ところで、本書によれば最大の送り出し元となっていた九州の、島原・天草は実はうちの片方の親の実家のある島のすぐ近く。先祖はどうやら貧農だったようなので、おそらく、うちの先祖をたどれば何人かは出稼ぎに行っていて、かつそのうちの何人かは「からゆきさん」だったのだろうなぁ、などと妄想した。もちろん、そんな記録は島中を探したって見つからないだろうけど。

地理的なこともあり、かつ大学院のときに自分自身でもオーラル・ヒストリーに挑戦したということもあり、いろんなことが非常に身近に感じられる本でした。読んで損はないと思います。

言語学が輝いていた時代

今週はもはややることがないので、サイクリングがてら県立図書館まで足を伸ばしてみた。今のうちに、日本語の本をもう少し読んでおこうかな、と。

目を引かれた本のひとつは、それぞれの著作を読んだことのある言語学者、田中克彦と鈴木孝夫の対談「言語学が輝いていた時代」(2007)。過去形、というのがなんとも。。

対論 言語学が輝いていた時代
鈴木 孝夫 田中 克彦
岩波書店
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さっと読破したところによれば、本書は日本の言語学史が垣間見える内容もあり、興味深くはあるが、エピソードからは、(少なくとも)日本の学界って耐えられないなー、という臭いが漂ってくる。露骨に「門下」という言葉が登場したり、早い話、かなりの程度が徒弟制度じゃん。

ついでに言うと、言語学って面倒くさそうな学問だな、と思わせるような記述も多々あり、残念なところも半分。とはいえ、この本自体はなかなかおもしろかったです。

国立国語研究所って、もとはGHQが日本語のローマ字化を準備させるためのデータ収集を行うところだった、とか、戦後しばらくは日本語を海外で教える、というだけで国際社会から白い目で見られるどころか、、、という時代だったとか、俺の世代じゃ知らないような話が出てきます。それぞれの主要大学における言語学科の地位、みたいな話もおもしろかったです。

ところで、こぼれ話から連想したことですが、言語政策の政府審議会に言語政策以外の専門家が集まるのって、なんか変な感じがしますね。それを言うなら、大学の授業を、専門外の人を「~学」が同じ、とかいうだけで担当させるっていうのも到底納得できないですが。プライオリティの置き方が根本的にズレてるでしょうっていう。

数学ガール

日本では文系・理系というカテゴリーが、それこそ血液型と同じぐらいに昔からポピュラーなわけですが、果たしてそんなものあるのか、と首をかしげるのは俺だけでしょうか。昔出会ったある人曰く、「理系になれなかった人が文系だ」ということですが、まったく同意します。

ちなみに、肉食系・草食系もわかりません。肉食系になれない人はみんな草食系という、ただそれだけのことだと思いますが(これに関しては、逆なのかも)。ちなみに俺は本当に魚菜食系です、とか言ってみたりして。

さて、日経新聞によると、今は「理系女子」が流行っているそうで、

「もてもて理系女子、広がる活躍の場 小説やコミックの主人公にも 」日経新聞2012年6月17日付
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO42547810T10C12A6HP0A00/?df=3

さっそく、うちに置いてあった「数学ガール」を手にとってみました。マンガなのに知的、しかもシナリオ自体は全然知的でなく、ちょいオタク向けという、日本の特徴が非常によく表れている新しいスタイルのマンガでした。こういうマンガが受け入れられる日本という国は、いろんな意味で最先端の方にいると思います。

数学ガール (数学ガールシリーズ 1)
結城 浩
ソフトバンククリエイティブ
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ちなみに俺には数式は読んでも理解不能なところの方が断然多いわけですが、不思議と数学への熱意というか愛が伝わってきて、数学って本当はおもしろいんだろうなぁ、と思ってしまいました。数学にかぎらず、もし中学ぐらいのときにそう思わせる力のある教師に出会っていれば、あるいは人間の生き方というのは全然変わっているだろうな、と思います。

というか、それでも日本の教師にはそういうタイプの人がわりかしたくさんいて、それが今の日本の教育レベルの高さにつながっていると思います。途上国での教師教育も、そういう観点から行えばもっといいんじゃないかと思いますが。

さて、数学に話を戻すと、実家の本棚にまた別の本で、「数と人間」という一般向けの本があり、心理学者のジャン・ピアジェの小論文「ゆりかごの数学」が掲載されていました。発達心理学は、子育てをする人は読んでみると観察する目が変わったり、アイディアが生まれたりして楽しいと思います。ピアジェによると、子どもは自発的にも数の概念に気づくのだそうです。

これらを読みながら、そういえば、中一のときまでは数学(というか算数ですね。。)が得意だったな、と思い出しました。授業を無視して勝手に教科書を先に進みまくったりしてたもんなぁ、、なつかしい。

italki(アイトーキ)で語学レッスンをして(教えて)みた

今日は久々にitalkiを使いました。しかも、初めて教える側になりました。オンライン・レッスンって、受けたことも一度しかないのに、今度は自分が教える側とは!貴重な体験でした。

今回教えた相手は、アメリカ在住の中国人。なぜか知らないが日本語を習っており、既に日本にも来たことがある親日派。日本語の基礎はできていたので、ほぼ日本語だけでフリートークを進められました。

やってみてわかったのですが、少額といえどもお金(クレジットと呼びます)の授受がある分、スケジューリングなども含めて自然と本物のオンラインレッスンに近い感じになりますね。途上国の先生ならどうせ事前準備なんてほとんどしないだろうから、水準は今回の俺と大差ないと思う。

アイトーキは、プライベートの語学レッスンのシステムを提供するプラットフォームで、先生の質はピンキリ。レッスンを受ける際に他の生徒がつけた評価を参考にしていくのは価格コムやagodaと同じシステムです。それでも、先進国のネイティブ・スピーカーに格安で教えてもらうこともできるし、また、少数言語を習うのにはけっこういいかも。ただ、日本語ができる人は中国人、韓国人以外にはかなり少ないので、普通は英語が共通言語になる。英語が全然できない人はまず英語からやるべきでしょう。

獲得したクレジットは、誰かに教えてもらうのに使ってもいいし、ある程度貯めてからペイパル経由で現金を「引き出す」こともできます。なので途上国の人にとっては、小遣い稼ぎどころか仕事になりうる。それどころか、たとえば最近経済が大変なことになっているベネズエラでは、かなりこういう就業機会は貴重かもしれない(反面、キューバやエクアドルなどはまだペイパルが使えないので講師もほぼゼロです)。

サイトがとるマージンについては、15%のみ。日本発の某同業サービスと比べるとかなりお得です。ただし、引き出すときにペイパル経由で入金するとペイパルにもマージンをちょっと抜かれる(追記:これについてはかなり改善されました(参照))ほか、使用通貨が米ドルのため、為替差損のリスクも発生します(「paypalのドル→円の換算レートについて」)。

誰でもまねできる 人気講師のすごい教え方 (中経出版)
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博多弁再入門

実家に戻って2週間、わけあってずっと近所の障がい者施設へ修業に行っていた。で、そこでふと気づいたこと。

話されている博多弁が、俺のものともうちの両親のものとも若干違う。うちの両親はふたりとも成人をかなり過ぎてから福岡に来ており、また、俺は俺で大学以降は基本的に実家を離れていたので方言の細かい部分はけっこう忘れてしまっている。だから、11年ぶりにちゃんと聞く博多弁はわりと新鮮だった。

と、いうわけで、博多弁再入門。

今回は文法の中で2点取り上げる。

1) 「できる」を表す「~(し)きる」
博多弁では、標準日本語と違って、スペイン語やタガログ語みたいに「できる」の用法がふたつある。
すなわち、状況的にできるのと、能力的にできるのとを区別する。

「~しきる」という表現は、そのうち、能力的にできる場合に使われる。たとえば「泳ぎきる」は、能力的に泳げることを表している。

お気づきの通り、標準日本語では「~しきる」というと「し遂げる」という意味があるが、これは博多弁でも同様の意味で使われる。すなわち、意味が2つあるので文脈で判断しなければならない。

2) もうひとつの命令形
標準日本語で命令形といえば「~しろ」のような形だが、博多弁では「~なさい」の語幹(=ます形)を使って命令形を作ることが多い。ただ、語尾は伸ばす。

たとえば、「買う」なら「買いー」、「する」なら「しー」、「来る」なら「きー」、という具合。
例外としては、下一段活用の動詞は最後に「りー」をつける。たとえば、「食べる」が「たべりー」、「そろえる」が「そろえりー」。

(追記)例外は他にもいくつかあり、「見る」が「みりー」になる等、上一段でも「り」をつけることがある。

この命令形は、実際のところ大人同士の会話ではあまり出てくるタイミングがない。だからだと思うが、うちの両親はこの命令形は使わない。

(博多弁、参考リンク)http://homepage3.nifty.com/mistaker7/bunpo01.htm

ところで、博多弁といえば、おもしろい活動がある。「博多にわか」という伝統的ダジャレのショーみたいなものなのだが、気取らない中にもちょっとルールがあって、ダジャレは博多弁でやらなければならない。ということは、言ってみれば博多弁の保存運動みたいな側面もかなり強いわけで、その上おもしろいので、これはぜひ続けていくべき伝統文化だと思う。他の地域の方言にもこういった活動があるんだろうか?

主義としてのエスペラント

ここまでの議論で、エスペラントの本質は学びやすさや公平性なんかにはなく、それをどう使うかというアイディアだということがわかったかと思う。

そもそも、言語的には、エスペラントはその歴史的経緯から、西の言葉である。発案され運動が繰り広げられてきたのはヨーロッパが中心で、その結果としてファンも彼の地に集中しており、EUとの接近も指摘できる。かつ、言語構造的にも完全に西の言葉なので、例えばアジア言語を母語とする人にとっては習得にかかる負担はけっこう重い。

だからエスペラントが言語として「国家の支配から独立しているから公平」と訴えたとしても、説得力はない。それは、国際機関が北の国に都合のよいように作られている、というような批判と同じ理屈である。

パワーバランスの不均衡を乗り越えるためには、世界各国でエスペラント主義者がバランスよく存在していることが必要だ。が、エスペラントの普及活動は、それが「正しい」から広めるのではなく、主義に賛同できる人を探す、という類のものであるべきだ。なので、たとえ国家の関与(たとえば公立学校で講座を持つとか)があっても、エスペラントが何なのかを知る機会を与える程度のもの以上は望ましくないと思う。文法の理解度を点数化して評価する等は、まったく本質から外れている。エスペラントの主義を理解しているかということが大切なのである。

究極的には、エスペラント主義はエスペラントを話さなくてもいい。お互いが第二言語同士で、平和の実現のために対話する、それに尽きる。これがエスペラント主義と言ってしまうなら、意識しないまでもエスペラント主義者はかなりの数にのぼるだろう。

ところで、エスペラント関係機関は、上記のような考え方には干渉しない。エスペラント協会専管の仕事は、言語的内容についてである。ありがたいことに、中央が思想を統制するような組織でないので、「なぜ今エスペラントか」は、学ぶうちに自分で見つけろ、ということだと思う。

そんなわけで、以上は、現時点での俺の個人的意見。エスペラントを始めてから今年で12年。ようやく自分の考えがもてるようになってきた。

英語が実現したエスペラント的世界

実は、今回、超短期間だがロサンゼルスを旅行してみて、これは初期のエスペラントが夢見た世界そのものではないか、と思った。

さまざまな人種が暮らす世界で、それぞれの民族はそれなりに自らの言葉を保持しつつ、さらに共通語として別の言葉を話す。舞台設定としては、俺が見たロサンゼルスはこれ以上ないぐらいにエスペラント的なのである。

エスペラントが反対しているのはその英語=アメリカだが、実際に現れた例を観察することによって、エスペラントが目指す世界の修正が必要だと思う。

俺がロサンゼルスの例から導き出した結論は、エスペラントのコミュニティは常に離散していなければいけない、ということだ。でなければ、エスペラントだけで生活できる環境が生まれ、継承語を保持するインセンティブがなくなってしまう。そうなればアメリカで暮らすのと同じで、その地はエスペラントのネイティブ話者だらけになってしまう。

それの何が問題なのか?

エスペラントは、ネイティブ話者ではなくて第二言語として使用するために作られた言葉である。言葉(第一言語)が違う者同士のコミュニケーションのために考案されたのだから、それが同じ者同士になってしまっては本末転倒。それこそ英語と変わらなくなってしまう。

エスペラント話者は(それぞれの地域コミュニティに属した状態という意味での)離散した上で、もうひとつのアイデンティティとして、エスペラント主義を共有する人の集まりでなければならない。結局のところ、エスペラントの存在意義は言語そのものではなくて、それを使用する人と方法にかかっているのである。

この考え方に基づくと、かつてエスペラントを公用語にしようと企てたエスペラント話者がいたが、それは完全に誤りということになる。今後も、国家がエスペラントを所有するに近い事態はあってはならない。

国家の集合や代表、すなわちEUや国連であっても同様だ。エスペラント主義を共有しない人が、必修だからとか就職に有利だからとかの理由で選ぶようであっては、エスペラントは根本的に無価値になってしまう。エスペラントが、英語から学ぶべき点は限りなく多いと俺は思う。

言語権とエスペラント

エスペラントは、20世紀後半からは前記のような言語帝国主義的状況に対して問題を提起する言語として主張してきているが、それはひとつには、少数民族や言語を保全する理論や運動、ようするに多様性を尊重する機運が活発になり、その理論に接近してきたからだ。特にエスペラントの支持者(ファン)が多いEUでは、EU内での言語的多様性を尊重するムードが確立しており、少数言語を継承していくことが言語権として認められている。

というのも、EU諸国には自国言語を認めさせたい、という戦略があるが、スロベニア語のような弱めの国語を尊重するなら、どうしてウェールズ語のような一(連合)国内の少数言語を尊重できないのか、という論理になってしまうからだ。

ウェールズ語は、ウェールズ民族の言葉として少数民族言語化しているというよりも、ちょうど日本の方言のように、イギリス人という同一民族内での少数言語として扱われている。現在、ウェールズではみんな英語も話せるわけだ。

では、EU内でのエスペラントはどうか。エスペラントという少数言語話者のコミュニティが離散していながらも実際にあるわけだから、同様に認めさせられないのか、という理屈である。エスペラント話者は、みんな、それぞれの国の言葉(や他の言葉)も話す。同じEU市民だ。

言語は思想を媒介するツールなのだから、これは理屈してアリである。たとえば「ユダヤ人」がイスラエルでヘブライ語を話すようになったのも、言語を復興した結果である。

以上のように、エスペラントはそれ自体が少数言語として存在を主張している。かつ、当初の企てとしての、共通語としての大志も捨てていない。少数言語なのに共通語、という一見矛盾するようなポジショニングが、エスペラントの現在の特徴になっている。

さて、EU内における一国内の言語多様性の議論を持ちだしたのは、日本もまた似たような状況に立たされるからだ。

日本が世界(または東アジア共同体でもいいが)における日本語の地位を保全しようとするなら、弱い言語として、その主張として多様性の保護を持ち出さないわけにはいかない。そうすると、日本国内での言語多様性を保護しないと理屈が通らないのである。

日本という国家のもとでは日本語が上位言語であり、方言等が下位言語である。
実際、アイヌ語話者はほとんどいないし、日本全国にある方言も明治以降、顕著に失われてきており、さらには奄美や沖縄の日本語でなかった諸語でさえ、日本語の「方言」化している。全国的に許容されるのは関西弁のような一部の方言だけで、それにしたって書記言語という面ではかなり弱い。そして、保存行為、例えば外国人向けにそのような方言を教える機関など、ほぼ皆無だ。

問題なのは、以上の状況に対して日本人はだいたいが無関心なのである。方言と標準日本語との関係をほとんど全く意識していない。方言を愛する人はたくさんいるが、自治体等では、方言を追放しないまでも、守るために活動しているところは、なかなかない(幸いなことに我が博多弁には「博多にわか」という大衆的な伝統芸能みたいなものがあって、愛好家がいるが)。というか、メディアにそう取り上げられないのでわからない。義務教育然りである。結局のところ、国民の関心が非常に低いために、国の政策もそれを反映しているのが今の日本の現状である。

加えて、この問題を考えるときには「在日」と朝鮮語の存在も意識しないわけにはいかない。経緯がどうあれ少なくとも100年も根付いているのだから、単なる「外国人」と「外国語」ではないことは明らかである。こちらについては、その経緯として少数民族としてのアイデンティティが強いのでその点も考慮する必要があるだろう。また、数は比較的少ないとしても在日中国人・台湾人もいる。

が、そのような在日を考慮するとすれば、今度はいわゆるニューカマーはどうなのか、という問題が出てくる。それは日系であり、フィリピン系、中国系2世だったりする。もう30年近く住んでいるそういう人たちの言語も考慮するとなれば、これはもう完全に移民国家と同じである。

言語帝国主義に反対して言語多様性を尊重する議論に加わってしまうと、移民国家並みの寛容さでもって接する必要があるが、実はこれは論理展開として全うであり、健全な先進国の姿なのだと私は思う。論理的帰結の必然により、EUでもイスラム系やアジア系移民の言語を尊重しないとしょうがないだろう。

言語帝国主義へのオルタナティブとしてのエスペラント

エスペラントは英語=アメリカの覇権へのオルタナティブと書いた。もう少しきつめの言い方をすれば、「言語帝国主義へのオルタナティブ」となる。

言語帝国主義というのは、ようするに強い言葉が世界を支配するのは当然、という考え方だ。この考え方の下では、弱い言葉は弱い立場に甘んじるのはしょうがないし、少数言語のようなとても弱い言葉は消滅するのも避けられない、という論理的帰結になる。持続可能な社会のために生態系の維持を模索している現代人にとっては、言語帝国主義の否定は一定の説得力を持っていると思われる。

しかし現実を見れば強い言葉が世界を支配している。やはりそれが自然じゃないか、と思う人も多いだろう。もっともであるように感じられるのは、実は日本も言語帝国主義の国家であり、その中で生活していると自然とその主義を内化していくからだ、と言われればどうだろう?

世界的には、共通語としては英語が強い。そうすると日本語というのは弱い言語なので、そのうちに方言のような地位に転落していく運命のように思われる。言語帝国主義のもとでは仕方ない論理的帰結だからだ。アジアのエリート層の一部は、今のうちから子どもを英語圏の大学を卒業させるべく準備しているが、そういう事態を想定しているからに他ならない。

こういう状態がエスカレートしている国として、俺の知る限り今のフィリピンがある。英語ができないと、それだけで教養がない、というような偏見がまかり通るダイグロシアな社会である。そして、商業的、学問的、文学的にフィリピンは他の英語国より立場が弱いので、自国として「正しい英語」の内容をコントロールできないどころか、出版物、各種資格試験などを外国製のものに依存するというびっくりな状況になっている。

言語帝国主義を容認するということは、日本がそのうちフィリピンみたいになるのはしょうがない、と言っているようなものだ。日本でも英語が公用語になると、ローカル日本人は冗談じゃなく不利になるのは目に見えている。では日本として言語帝国主義に反対なのかというと、実際には日本は日本語を国語として行き渡らせるために、言語帝国主義の論理を貫いてきた。