生きながら死んでいるとは何か

ケイタイのない暮らしを始めてから一週間あまり、仕事をしてないということもあり、別にどうってことないですね。050plusとスカイプ、PCメールだけで、現代的社会生活は十分に回っています。欲を言えば町中に、もう少しフリーのwi-fiポイントが増えてくれればもっといいのですが。

さて、今日はちょっと暗い話。ブログでこういう後ろ向きなことを発信するのもどうかと思って書いてきませんでしたが、もうピークはちょっと前に脱したと思うので、この間に考えたことについて(前向きに)まとめてみます。

実は、2月の中旬に実家から東京に戻った頃にある夢を見ました。なんですが、何の夢だかはもはや覚えていません。とにかくショックで、ガツーンとやられてしまったことだけ覚えています。なんせ、今日までまだひきずっているぐらいです。

夢はおそらく怖い夢で、小さい頃にそういうのをときどき見ていたような気もします。戦争の夢だったかもしれません。殺し屋が襲ってきて、必死に逃げるんだけど結局追いつかれて、最後は殺されてしまう、みたいな、きっとそんな夢。で、殺られる寸前に目が覚めたんだと思います。

起きてからも苦しんだのは、死後の世界をイメージしたからでした。というのは、平たくいえば、自分がいない世界です。それが恐ろしく感じられるのは、自分が天国を信じていないからかもしれません。なぜ信じていないのかといえば、単に親が無信教という一種の信仰を持っているからでしょう。無信教から有宗教に改宗するのは、簡単なことじゃありません。

私は、小さい時に死後の世界をイメージしてブラックホールに落ちるような感覚を味わって以来、ある種のトラウマになってしまいました。どうしても、自分の死と「ブラックホール」を結びつけてしまう。地獄なのかも。

で、次の段階です。今度は、「どうせ死ぬんなら生きている間に何をやっても一緒じゃん」という気がしてくるわけです。もう人生で体験することのひと通りは味わってしまった気がして、あとはわりとこれまでの経験の繰り返しなんじゃないかな、とか想像してしまうようになりました。というか、拷問とか嫌な目はほとんど全く「味わって」いないわけですが、当然ながらそんなものはいりません。楽しいことをひと通り、という意味です。

そんな後ろ向きな思考で過ごしていたわけですが、今度はふと「生きながら死んでいるとは何か」というフレーズが頭から離れなくなりました。たとえば、一日中パチンコで過ごしている人を見て、あるいは、一日の大半を会社で過ごしているサラリーマンを見て、それを感じました。ひるがえって、自分はどうなんだ。どうしようか、と考えてしまいました。これから40年かそこら、何をして過ごそうか。

一方で、「死は救済である」という、某宗教の教えのことも考えました。たしかにそうかもしれない。苦しんでいるときに死ぬのならば、きっと気持ちいいでしょう。それはちょうど、疲れ果てて眠りにつくようなものだと思います。「眠り」は、日常的に繰り返される死と復活に違いありません。予行練習です。

そしていろいろ考えた末の結論として、最後に、やっぱり考えること自体が無駄だと思いました。死後の世界のことで悩むなんて、そんなことで時間を奪われているなんて、それこそ「生きながら死んでいる」ということに他ならないわけです。

私は、リアルに「生」を感じられる場所で生きていきたいと思います。人工的に誰かに生かされているんじゃなくて、自ら自然に従って「生きている」と感じられる生き方をしていたいです。かつ、なるべくヘルシーな暮らしもしたくなりました。

生きながら死んでいる

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中