障害学とは

実家に帰ってきてから、協力隊の準備にかかわる事務仕事とか、予防接種に行ったりとかしています。けっこう時間とられます。。加えて転居や失業関連の手続きもありますからね。保険・年金とか失業手当の相談とか、うんたらかんたら。

それはそれとして、本業関連でいうと楽器の練習とか語学の勉強もやりたいのだけど、いかんせんルーティーンができてないもんで、ちょっとしか続かない。物事に対する執着が弱ってきているので、学生のときみたいに一心不乱に(良くも悪くも)やる、というようなことが既にできなくなっている。ちょっと残念。

とりあえず、集中するためには環境を整えることが大事だと思った。計画とまではいかないにせよ目標を立てて、その間は他のことに費やす時間を極力減らすようにする。たとえば、フェイスブックとかですね。

自己コントロールが必要なのは、体型管理もそう。実は、気がついたら5キロも太っていた。これからジョギングを再開して、食べ過ぎ気味なのを減らそうと思う。ま、旅行に出るまでのしばしの間ですけども。

で、そんな風にしてエクアドルで音楽教師になる準備を進めているわけですが、これを将来的にどうキャリアに結びつけるか、ということもちょっと考えてみてます。音楽教育だけだと、どうも道が開けませんので、プラスアルファのところで軌道修正していきたい。そこで勉強し始めたのが、障害学。

「障害学」というのはいわゆる女性学とかと同じような感じで捉えられるようだ。フェミニズムが「女性」ということをセックスとジェンダーに分けて捉えたのと全く同様に、障害学では障がいを、身体的な特徴である「インペアメント」と、それをきっかけに社会的な不利益を被るものとしての「ディスアビリティ」に分けて捉える。インペアメントがあるのは事実だけれども、それによって人生が暗くなるかどうかは、ディスアビリティの問題ですよ、というわけ。

これの何が俺にとっておもしろかったかというと、こういう論理は、まさに反差別教育に必要な原理だからです。女として日本で生きていくとか、日本にいて日本語ができないとか、そういうことは社会的な仕掛けがマジョリティ用にしかできていないからこそ問題になるのであって、マイノリティ自身に責められるいわれがあるわけでは、本来的にはないのです。

たとえば、最近読んだ「みんなが手話を話した島」のように、ろうであることがハンディにならなかったらしい社会が昔あった。あるいは、北欧、香港、シンガポール、フィリピンのように、女性であることが社会進出においてもはやハンディでなくなっているような国もある。

では、日本はどうなんでしょうか。フェミニズムにせよ障害学にせよろう文化にせよ、こういう論理が発展してきたのは70年代だそうですが、今まで浸透しているとは到底思えません。社会がそうなんだから、役所の提供するサービスの一部でしかない公教育も、当然そういう感覚でいます。ということは、隠れたカリキュラムとして、差別を教えているわけです。こんなことでいいはずがありません。

まだ協力隊の準備を始めた段階ですが、俺には既に上記のような大きな気づきがありました。これからも、まだまだ学ぶことがたくさんあります。

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