ダルフールの通訳

昨日の引き続き、アフリカ関係の話です。

図書館でたまたま手にとって借りた本。

「ダルフールの通訳 ジェノサイドの目撃者」ダウド・ハリ(2008)

ダルフールの通訳 ジェノサイドの目撃者
ダウド ハリ
武田ランダムハウスジャパン
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本書が世に出た2008年とは状況は変わっているのだろうが、スーダンのダルフールの問題は、今日の時点でも全然解決していない。大虐殺を把握していたはずの当時の大統領が、今でも現職のままというだけで明白だ。国際刑事裁判所に起訴されて逮捕状が出ている状態でも、身柄を引き渡されるような事態には何年経ってもなっていない。

というのは普通の感覚からするとあり得ないのだが、それが国際政治の問題の複雑さ。石油の利権を争っているアメリカと中国の思惑だったり、遡ればそもそもこんな状態の発端を創り出したイギリスの無責任だったり、国連とかアフリカ連合がいかに機能していないか(もちろん、と同時に、限定的にいかに機能しているか)ということの表れだったりするわけです。

世の中にはなんでもかんでもを「ビジネス」にしてしまう連中がいて、しかもそのビジネスの影響によって、日本でのほほんと暮らしている人の生活が支えられているという関連。しかし、どうも放っておいたらそのつながりが見えないようにインセンティブのシステムが出来上がっている。だからこそ、「北」の国の人は「南」の人の足をそれと知らずに踏んでいる、と言われるわけで。「原罪」というのはまさにそういうことなのでは、と思ってしまいます。

本書で語られるような世界は、もちろん読み手のそれまでの経験によって伝わる範囲というのは決まってくるのだけど、これを読んでもなお平然としていられる俺という人間は、いかにこれまで苦痛を味わわずに生きてきたか、ということがわかる。

こういう感覚は、社会問題を告発するタイプの本を読む度にいつも思い出されるものであって、自分自身で体験していない読者に、
一体何が伝わるというのだろう、と思う。しかし逆に、もし自分が当事者であったなら、フラッシュバックしてしまってとてもその問題に取り組むことなんてできないだろう。この微妙なバランスのもとに、怒りを共有しつつ精神的なバランスを失わないようにすることが求められていると思う。それはメデューサと戦うようなものだ。(再起不能にならないために)目を合わせることなく、しかし問題から目を背けることなく立ち向かわなくてはならない。というか、そうすべきはずだ。

負の連鎖を考慮すれば、問題というのは当事者に任せていては解決しないことは明らか。だから、関係する第三者としてどうあるか、ということをそれぞれが上手に習得しなければいけなくて、それが現代人にとっての課題だと俺は思う。

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