ろう者はストレンジャー

私にとっての「多文化共生」を考える。多文化教育的なものを専門にしてきたからには、こだわりがあるのは当然です。

「多文化」共生というのがなぜ「多国籍」とか「多民族」ではないのか。それはやはり、同じ国民同士、民族同士でもいろんな文化があるからであり、ましてや民族、国籍が違うならなおさらだ、という発想が基になっていると私は思う。

というのは、実は当たり前のことなんだけど、どうしてこれが今まで一般に受け入れられないのか。政治的な敗北以外が一番で、次に脳みそがついていってないというのが大きな理由だと思う。マイノリティに共感できないというか、しようとしない人がとても多いのが現状。福祉施策とか事業というのは、それなしに成功しようがないと思いますが。

たとえば単一民族観。たとえば帰国子女。そして障がい者や、DVなどのサバイバーとかいろいろ。最近は、キレる若者ならぬ、暴走系老人というカテゴリーもあるそうです。私たちのまわりには、いろんな人がいます。

さて、そんなことを考える直接のきっかけになったのがこの本。

「日本手話とろう文化 ろう者はストレンジャー」木村晴美(2007)

日本手話とろう文化―ろう者はストレンジャー
木村 晴美
生活書院
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著者はろう者で、両親もろう者の家庭で育った。手話キャスター等をしているそうです。

この本の副題にもありますが、「ろう」というのはたいていの人(ろうとの対比では、聴こえる人を「聴者」といいます)にとって「ストレンジャー」。見た目はとにかく、中身が相当違う。聴者とは、行動様式がかなり違う。しかも彼らの日本語って、母語ではない(親から学ばないので)。

そんなわけで、この本も著者の第二言語である日本語で書かれている。ネイティブと同じぐらい流暢なので、読んでもそのことを意識することはないが、ときどき思い出したようなタイミングで記述の中で触れられ、ハッとする。ちょうど日本で10代を過ごした外国出身の人が話すときのように、相手の言葉が出来過ぎると、ついついそれが相手にとって第二言語だということを忘れてしまう。そして、文法は正確なのに、意味の部分でミスコミュニケーションが起きたりするのだ。

本書の中で、著者は何度も「ろう者の手話こそがネイティブの文法なのだ」と言っている。たとえばこんなことを英語話者が言っているなら、懐が小さいやつめ、と思ってしまうのだが、手話話者がこれまで置かれてきた立場を考えれば、機会を捉えてそう主張したくなる気持ちはわかる。なんせ、手話はろう学校の中でさえ禁じられてきた言葉なのだから。

ところで、俺が以前フィリピンでアメリカ手話(ASL)を習ったときに、「なんだ、独自の文法って聞いてたのに英語と一緒じゃん」という感想を持ったのだが、これの理由が本書でようやく明らかになりました。どうやら、俺が習ってたのはアメリカ手話でなくて「英語対応手話」だったようです。そういえば、先生は聴者でした。しかも期末のテストは手話ダンスでした。よく考えてみれば、こんなの、ろう者とのコミュニケーションで使うはずないもんね。

ということで、今のフィリピンでの聴者への手話教育のレベルは、そんなもんなんですね。

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