クレオールとダイグロシアな日本

家が寒すぎる。。だんだん、ゆううつになってきました。

仕方がないので読書モード。今日の本は、社会言語学。

「クレオール語」 (2000)ロベール ショダンソン著、糟谷啓介・田中克彦訳 (文庫クセジュ)

言語の可能性とか変容とか習得に心を奪われている俺としては、クレオールというのは非常に気になる。特にフィリピンのチャバカノ語は気になって仕方がない。

さて、「クレオール語」には、フランス語系、英語系、スペイン語系、ポルトガル語系、さらにはオランダ語系がある。ようするに植民地支配との関連で生まれた言語なわけです。

それ以外でちょっと似たようなものとしては、商人の間で話されるピジンというのもある。たとえば、国語になる前のマレー語ってそういう類のものだったんじゃないかと。

で、クレオールが亜流か、それとも別個のちゃんとした言語か、というのが政治的には大事なテーマなのだけど、現代言語学はこういう政治的な命題には批判的な立場を貫こう、としているはずです。ポストコロニアルの文化人類学とかの影響が強いっぽい。

ヨーロッパ語とクレオール語の対比をしているうちは対岸の火事なのだけど、ひるがえって日本語と方言の関係をみてみると、どうだろう。

方言といっても、現代の方言と明治初期とか江戸の頃とかのそれっていうのは相当な違いがあるようです。中には、もともと別の言語だったものもあり、それがだんだんと日本語、というか制定された標準語らしいものに変わっていったのがこの150年ほどのはずです。

それはもちろん上記のようなクレオールとは違うのだけど、少なくともダイグロシアな状況には変わりない。すなわち、社会が使用域の異なる2つの「言葉」を用いているわけです。

今まで日本社会って、こういう考え方はおろか、そもそも日本語が人口構成の変化を含めた時代にあわせて変容していくことすら、認めてこなかった。標準語と方言の存在について、ちょうど在日外国人のこどもが外では日本語を話しながら家庭内で親の母語を話すのを特殊だと気が付かないのと同じぐらい、素朴に無視してきたと思う。いつまでこんな時代が続くんでしょうか。

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