猫の大虐殺

ちょっと息抜きに読んでみた本がおもしろかったので紹介します。

知的な楽しみ。文庫サイズで読める、アメリカの歴史学者の書いたエッセイ風論文集です。翻訳も上手でした、というか秀逸。

「猫の大虐殺」ロバート・ダーントン(1990)岩波書店

ちょっと過激な書名ですが、日本の出版社の陰謀ではなく、実は原題の英語”The great cat massacre”の直訳。18世紀フランスで普通に行われていた、現代人には何が楽しいのか理解できない行動の分析を通じて、いかに一般社会の感覚がかけ離れているかを再認識しよう、というのが本書を貫くテーマ。

社会科学系に興味がある人なら、おもしろいのでぜひ読んでみてください!

俺は常々、歴史に関する本を読むのに、過去を美化する記述があるのが気に食わないタイプです。例えば、江戸時代はよかった、とか言われると「んなわけねーだろ」と思ってしまいます。そもそも医療の発達していない社会で「生きる」ということがどういうことか、日本でぬくぬくと育った我々にはとうてい理解できないはずです。年貢を納めきれずに妻や子供を売ったり、人頭税を回避するために生まれた子供を殺したり、祖父母を山に捨てに行くような社会の感覚を、我々が理解できるとは到底思えません。

こういう「差異の認識」に関わる感性は、世代間交流、国際交流の際や、また、企業で人事などに関わる場合に非常に重要です。途上国のスラムでフィールドワークをする際にもそうでしょう。違いがあることを認めた上で、なんとかそれを克服または軽減するようなアプローチを編み出さないといけません。

次に、どうも(少なくとも)日本では偉人崇拝の傾向があって、昔の哲学者、戦国武将や芸術家の伝記をはじめ、「偉大なことをした人は偉大な人格に違いない」というような前提が持たれているように感じます。これは、特に音楽史を勉強しているときに感じたことです。勉学を人格の完成に結びつけて考えるのは中国に由来する発想なのかどうなのか。

どう考えても変態みたいな人なのに、そこを直視していない。というか、偉人の異常さ加減が分析する人の理解力を軽く超えているからだと思いますが。。たとえば、偉大な学者にしたって、やたら強引に理論を作ったことが批判されている。共産主義者はもちろんのこと、特に精神分析学者や大理論系の社会学者にそれが激しい。どう考えても傲慢さのなせる業だと思います。

差異の認識といえば、今でも外国人の言うジョークで何がおもしろいのかわからないことが多々あります。または、あまりにブラックジョークすぎてついていけないこととか。

というか、はっきり言って理解できないことだらけですね。同時代人でも、さらに同国人でもとても理解できない。これを前提として「どのあたり」かということを分析していくのが現代人に必要かつ重要なアプローチだと思います。謙虚であれ。

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