再び。ボランティアされる自分

先日、日本に一時帰国してちょっと気持ちがリフレッシュされたので、またタガログ語を勉強しようか、という気分になっている。で、出来心で少し難しそうな本を買ってはみたのだけど、開くにはまだエネルギーが足りない。。

かわりにと言ってはなんだけど、地方語であるセブアノ語をもっと勉強してみることにした。この言葉は、日本で言うところの関西弁みたいなもので、首都の言葉であるタガログ語と比べるとちょっと田舎臭さもあるものの、味わいのある素敵な言葉です。

で、マンツーマンのレッスンを受けるために、フィリピン人の友人の友人に尋ねてもらうように声をかけまくってみた。無論、一時間いくらでお金を払って習うつもりだった。

ところが、蓋を開けてみると2人ほど返事をくれた人は、どちらもボランティアでよいという。外国人に地方後を教えるという経験自体をおもしろがってくれているようだ。たしかに、自分に置き換えてみるとその気持ちはわかる。

個人的には、お金を払った方が締りが出る(たとえばドタキャン・遅刻防止効果など)と思うのだが、とりあえず素直に従うことにした。ボランティアされるという、あの気持ちの悪さを忘れてはいけないと思ったのもある。

助けられる気持ちの悪さは、それが不完全な自分を確認する瞬間であるためだ。しかし、本来はそれが普通。大人だから、完全に自立した存在であるべき、という通念の方がおかしいのだ。初心を忘れたくない俺は、いつまでも、未熟な存在であることを表に出して生きていくつもりだ。それでいいのだ。

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